SNSで見かけた自殺予告にモヤモヤした話

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この年末、Twitterで「年明けに自殺します」的なアカウントを見かけました。

リプ欄には「FF外から失礼します」「はじめまして」という言葉に続き、「苦しんだんだね」「お疲れ様」「何も言えないけど…」みたいなコメントが多く書き込まれ、それに対して「ありがとうございます。苦しみばかりの人生でした。決心は変わりません」「残された時間を有意義に過ごします」というようなリプが返されていました。

本当に自殺するんだろうか?この人。

だとしたら悲しいことです。

自分も何か思考の方向性を変えられるようなコメントを書き込むべきなのではないか…。

と考えたものの、少し考えて止めました。

SNSで偶然見かけた程度の関わりしかない私が、自殺しようとまで追い込まれた人の琴線に触れるような言葉をTwitterの140文字で書き込むことなんて簡単なことじゃない。

そう考えたからです。

もしもそれをしようと思ったら、少なくともその人の過去ツイートを読んでいき、分析をしてからでないと書けません。

一般的な慰めか励ましで終わりです。

そしてそれをするには時間と努力と労力が必要で、それをかけられる余力が自分にはありません。

来世は楽しい人生を過ごしたい的な考えを持っている人に「来世なんてないよ」なんて言っても始まりませんし。

だからやめました。ハイ。

でも何かモヤモヤしたものと、ちょっとした疑問とが、揺らされた私の心に湧き上がってきたんですね。

どうしてSNSで予告をするのだろうかという疑問

「SNSで自殺予告」という事象に心を揺らされた後、

「そもそも本気で自殺をしようとして、なぜSNSで予告するのだろう?」

という疑問が湧きました。

僕は自殺を考えたことがある人間で(世の中には結構多いと思う)、その時にはSNSなんてものはありませんでしたが、仮に自殺するとしたら「どうやって残った人に迷惑がかからない綺麗な死に方をするか」を考えていました。

自分の場合、自殺を考えたのは自分がただ自分の責任において苦しいからであり、他人には何の関わりもありませんでした。

だから死ぬ時はただ死ぬ。

それをSNSで予告するなんてことはしないでしょう。

だから今回凄くモヤモヤしたんですね。

なぜ予告なんかするのか?
予告して何かして欲しいのか?

自分の自殺をSNSで予告するという行動の背景には何があるのだろうか?

しばらくモヤモヤしていたのですが、「自殺のブランド化」と「集合欲求」の2つがあるという考えに落ち着きました。

自分自身の自殺をブランド化させたい?

自殺のブランド化とは、「自殺≒救い」というイメージを持った状態のことで、この記事に書きました。

タイトル画像 「自殺≒救い」というブランドの危険性と、信じないための3つの方法

これまで無名だった普通の子が、自殺をするだけで、テレビに取り上げられてみんなに存在を知られるようになる。

テレビに出てる有名なコメンテータに悲しみの言葉を添えてもらえる。

そうか。
自殺という方法を取れば、こうやって救われることがあるんだ。

自殺が僕に残された唯一の救いの方法かもしれない…。

つまり、自殺に次のイメージを持った状態です。

・自分の存在を認知してもらえる

・悲しみの言葉を貰える

・それで救われるような気がする

SNSで予告をすることは、この自殺へのブランドイメージをより強化しようという行為に思えます。

仮に自殺をしたとして、その後に事件として取り上げられなければ認知されることもありません。

そこは自分でコントロール出来ない領域です。

でもSNSで告知すれば、自殺をする前から積極的に「自殺をしようとしている自分」を発信することができる。

注目を集める内容だから拡散も見込めるかもしれません。

これに成功すれば、自分がしようとしている自殺を「自殺ブランド」に一躍押し上げることが出来るでしょう。

これによって救いをというか、報酬を得ようという本能的な心理が働いているのではないかと思うのです。

その報酬とは、集合欲求が満たされることで感じる、社会的報酬です。

自殺予告で集合欲求が満たされる?

自殺に追い込まれる要因は様々ですが、自分の経験から考えると「集合に所属できない孤独感からくるストレス」が大きな要因の一つだと考えています。

僕の場合は自分自身を「非モテ」だと認識していて、その他大勢の「モテ」集団との間に断絶を感じていたことに強烈なストレスを感じていました。

その断絶から逃れる方法として、自殺というものを考えていたんです。

そして逆説的ですが、自分自身を殺すことで、「モテ」という集合に自分自身を所属させたいという心理が働いていたと考えています。

集合欲と自殺の考察はこちらの記事に書きました。

タイトル画像 【書評】「イノセント・デイズ」で考える、孤独と集合欲からの自殺

じゃあSNSに自殺予告をすることで、どんな集合欲求が満たされるのでしょうか。

こういったものが考えられます。

・過去に自分がSNSで見かけた、自殺予告をした人々との同一化

・「いいね」「リツイート」「リプ」による承認

・SNSそのものへの所属欲求

SNSは膨大な人間が関わる虚構であり、また、リアルタイムに反応が感じられるため、集合欲求を相当に刺激する存在です。

「いいね」「リツイート」「リプ」といった反応を貰うことはこの世界からの承認であり、集合欲求に直接刺さります。

それだけでも十分な社会的報酬を感じることになるでしょう。

また、過去に「SNSでの自殺予告をした人」に自分を重ねることも出来ます。自殺ブランドへの集合欲求もこれで得られます。

…どうでしょうか。集合欲求、社会的報酬の観点で見ると、SNS自殺予告って、魅力的に見えませんか。

だからなんでしょう。

SNS自殺予告をするのは。

でも私はそれに対して「いいね」も「リツイート」はしたくないし、コメントも出来ないんですよね、やっぱり。

死ぬにはまだ早いと伝えたいけど、しょうがない時もある

多くのコメントやいいねを貰ったとしても、死んだらそれをどこにも持っていくことは出来ません。

自殺は悲しいことで、思考の閉塞を取り払ったり、方向性を変えたり、とりあえず休息を取ったり環境から逃げたりすることで防げる可能性があるものです。

死んだら終わり。
出来ることなら生きてほしい。

そう考えてはいますが、だからといってSNSで自殺を予告する人に労力と時間を割くことは私には出来ません。これは良し悪しの話ではなくて、私の生き方の優先順位の問題です。エゴです。

そしておそらく大部分の人もそうでしょう。

親しい人間関係のない他人に対して、しかもどこの誰とも分からない、名前も顔も分からない、どこまでが本当か噓かすら分からない存在に対して割けるものなんてない。

それよりもまず自分の周りに対してで精一杯です。

だから私は、SNSの自殺予告に対しては「自殺かあ…。死ぬのはまだ早いけど、残念だけどしょうがない時があるよね」としか考えることができませんでした。

そんなものではないでしょうか?

落ち込みを繰り返した僕が語る「死ぬのはまだ早い」という思考スキルを持つべき3つの理由

だから自殺のSNS予告なんて意味が無いものだと考えてしまいます。実名アカなら違うかもしれませんけど。

より強い幻想にさらに囚われるだけ。
それはより強い集合欲求に苦しめられるだけです。

そしてそれを偶然見た人の中には、私のようなモヤモヤを感じてしまう人もいるのではないかと。

そもそも真実かどうかも分かりませんし。

私一人がモヤモヤした、ただそれだけの話で終わることを願います。

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