【書評】「イノセント・デイズ」で考える、孤独と集合欲からの自殺

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こんにちは、霧島もとみです。

早見和真さんの小説「イノセント・デイズ」を読んで考えたことを紹介させていただきます。

イノセント・デイズは2014年に単行本で発売され、第68回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門を受賞、2018年には妻夫木聡さん主演でWOWOWでドラマ化されるなど、話題になった作品です。

イノセント・デイズ表紙

 

なぜ主人公は自分自身の死を選択したのか?

孤独と集合欲の関係性、イノセント=無垢とは何なのかについて考えさせられる作品でした。

僕がかつて自分自身の死を選択肢に入れていた経験も踏まえて書いていきたいと思います。

「イノセント・デイズ」はこんな話

主人公の田中幸乃は、放火殺人事件の被告人として登場します。

別れた恋人の新しい家族を身勝手な理由で殺害した人物としてマスコミに報道され、裁判でもおおむねその方向で裁かれることとなり、結果、死刑を宣告されます。本人もそれを反論なく認め、受け入れます。

「主文、被告人をー」
「覚悟のない十七歳の母のもとー」
「養父からの激しい暴力にさらされてー」
「中学時代には強盗致傷事件をー」
「罪なき過去の交際相手をー」
「その計画性と深い殺意を考えればー」
「反省の様子はほとんど見られずー」
「証拠の信頼性は極めて高くー」
「死刑に処するー」

裁判官が読み上げるこれらの文言からは、やはり身勝手で残虐な犯行という印象を与えられます。

しかし、これらは実際には事実ではないことの羅列でした。

物語が進むにしたがって、一つ一つの真実が様々な登場人物の視点から明らかにされていきます。

最終的に放火殺人事件の犯人は別人であったことが明かされますが、冤罪を晴らしたいという田中幸乃の友人の願いは間に合わず、死刑は執行されます。

なぜ田中幸乃は無実でありながら死刑判決を受け入れたのか。
彼女の人生は何だったのか。

これがイノセント・デイズのおおまかなストーリーです。

主人公・幸乃は「誰かに必要とされたい」人物

主人公の幸乃の人間性を紐解くキーワードは「誰かに必要とされたい」という言葉です。関連するエピソードは幾つか出てきますが、その中でも特に、当時の恋人・井上敬介に関する彼女の次の台詞に強く象徴されています。

”だって、これまでもいっぱい人に縋って、捨てられて、信じて、裏切られてを繰り返してきましたから。”

”これが最後のチャンスです。そう思って、私は彼に心を委ねました。”

”あの人にまで見捨てられたら、もう私に生きている価値はありません。”

幸乃は小学校の時に母を亡くし、身勝手な祖母・美智子が彼女を家族から引き離した結果として、閉塞された辛く苦しい世界で過ごすことになります。

そんな環境が彼女にこの言葉を言わせたのでしょう。

そして最終的に恋人・井上敬介に捨てられることになった彼女は、この言葉のとおり、自分に「生きている価値がない」と考えるようになるのです。

井上敬介は放火殺人事件で妻と子供を亡くした被害者なのですが、ところがこの男は非常に身勝手な男で、恋人だった幸乃に対しては加害者といってよいくらいの人物でした。

敬介の友人・八田聡はこのように彼のことを考えています。

”どうして人を傷つけることを厭わないでいられるのか。”

”アメとムチを無自覚に使い分け、人の優しさに平然とつけ込む。そこに悪意はない。悪意がないからタチが悪い。”

つまり、サイコパスです。

サイコパスな男・敬介が、自分に都合の良い存在である幸乃を食い物にして、必要なくなったから捨てたという構図なのです。

・誰かに必要とされたいという無垢で無防備な女性。
・自分に都合の良い存在を求めるサイコパスな男性。

これだけで悲劇的な展開が見えそうなものですが…、幸乃が死に向かっていった心理を理解しようとしたとき、僕は別の視点が必要なことに気が付きました。

幸乃が死を選んだ理由は何か?

この物語の重要な点は、幸乃が自分は無実であるにも関わらず、誰かが犯した罪を進んで引き受けて死刑になることを選択した点にあります。

そのために取り調べでも裁判でも反論を一切行いません。
自分自身の死刑のために淡々と行動するのみ。裁判の傍聴シーンでもその違和感がありありと描かれています。

恋人に捨てられる前に幸乃が言った言葉。

”あの人にまで見捨てられたら、もう私に生きている価値はありません。”

そして見捨てられたから、自分に生きている価値はないと考え、死んだのか。
絶望ゆえの死。
最後の希望が断ち切られたことからの、逃避の死。

分かりやすい気もしましたが、違和感がありました。

そんなことで死んでしまうのか?
あまりにも単純過ぎないか?

何かが引っかかる。

それを解くための鍵は、彼女が死刑執行される場面にありました。

死刑執行時に見せた「死ぬために生きる」姿

死刑が執行されるその日、まさにその場面で、幸乃は生来の病気である「興奮すると失神する」発作を起こしかけます。

これは彼女が無実であると確信した女性刑務官が、とっさに彼女の死刑執行を延期するため心神喪失状態に陥らせようとした行動によるものであり、読んでいる僕も「これで延期になって、新しい証拠で再審になるのか?」と展開に息を呑みました。

しかし幸乃はこの発作に必死に堪え、死刑台に向かおうとします。

”私は見届けねばならないのだ。彼女が死ぬために生きようとする姿を、この目に焼き付けなければならなかった。”

女性刑務官のこの描写から、この瞬間、幸乃がまさに自分の意思で生きていた様子が読み取れるのです。

つまり幸乃にとって死刑による死が、けして逃避的なものではなく、彼女にとって前向きな生そのものであったことを暗示します。

死が前向きな生?

この謎を考えることが、この作品のテーマの一つかもしれないと考えました。

僕が自分自身の死を選択肢に入れていた時のこと

僕はかつて自分自身の死を選択肢に入れていました。

幸乃のように悲劇的な人生を送ってきたからではありません。
むしろ一般的には、平々凡々な人生です。

僕が死を選択肢に入れていた理由は、ただひとつ、異性にモテないからでした。
生まれてから一度も女性と付き合ったことがなく、彼女いない歴=年齢をただ更新していく日々に大きな絶望を感じていたことがその理由です。

しかしこの頃、僕の精神を大きく蝕んでいたのは「非モテ」であることそのものではありませんでした。

何だったかというと、疎外感です。
僕の主観的な非モテの構造は次のようなものでした。

【図解】主観的な非モテの構造

自分以外のその他大勢が属しているであろう「モテの世界」に自分が入れないことの疎外感が、圧倒的に重くのしかかり、僕の精神に負担を強いていました。

そして「30歳になるまでに彼女が出来なかったら死のう」と考え詰めた。

僕にのしかかっていたのは、「モテの世界の集団」が存在し、自分はそこに入れない部外者だという認識でした。

だとすると、僕の彼女ができないまま自殺するという行為にどういう意味があったのか。不思議とそのことに「イノセント・デイズ」は思考を向けさせました。

その結果見えてきたのが、

彼女が出来ない非モテな自分自身を殺す行為とは、逆説的なようですが、「モテの世界の集団」に自分を所属させようとする行為に他ならなかったのではないのかという思考です。

そしてこの構図が、そのまま幸乃にも当てはまるのではないかと考えました。

幸乃が「死ぬために生きた」理由は孤独ゆえの集合欲

幸乃は「誰かに必要とされたい」人間だと書きました。

それは言い換えれば、「誰かに必要とされるグループに所属したい」という願望です。なぜなら幸乃にとって「誰か」は具体的な個人を指すのではなく、誰でも良かったからです。

恋人となった敬介も、たまたま彼女を見つけただけの人間でしかありません。

しかし彼女は敬介のことを「最後のチャンス」だとして考え、それに賭けました。そしてその賭けはあえなく失敗し、彼女は誰かに必要とされる機会を失ってしまったと考えました。

図にすると次のような構図です。

幸乃の死の構造考

彼女の意識の中では「誰かに必要とされるグループ」が常にあり、自分はその集合の中にいないという孤独感がありました。

一時的には「グループ」に所属していたという認識はあったでしょう。
しかしそれは誰かに歪な形で必要とされた(あるいは利用された)だけであり、結果としては切り離され、集合から外れた状態にあったはずです。

敬介に捨てられたとき、この孤独の構造は決定的なものになりました。

この状況下で彼女が選んだのが「他人の罪を被って死刑になることでの死」です。

しかもその死は、ただ単に悲観に追い込まれた死ではなく、彼女にとって前向きなーーつまり何らかの希望を与える死でした。

それは彼女が最後に見せた「死ぬために生きる姿」に表現されています。

では、その希望が何だったかと言うと、自分が死ぬことで「誰かに必要とされるグループ」を完成させる、自分がその一部になるという幻想だったというのが僕の仮説です。

彼女が生涯求めていたことは「誰かに必要とされること」です。

その彼女にとって「誰にも必要とされない自分」は、不本意な存在です。

彼女自身が望まないだけでなく、彼女の理想である「誰かに必要とされるグループ」にも不必要な存在なのです。

ここに次のような心理が働いたと僕は考えます。

「不必要な自分の存在を消すことで、誰かに必要とされるグループは完成する。
つまり形を変えて、私はそのグループに所属できる」

自分という一つの生命よりも、自分が所属したい集団への集合欲とでも呼ぶべき衝動が勝った。その行動に彼女は奮えた。そしてそのために死を望んだ。

こう考えたとき、僕は幻想への集合欲の強さに改めて思いを強くしました。

夏目漱石の「こころ」で幻想への殉死を考えさせられた経験が生きたのかもしれません。

▼【書評】夏目漱石「こころ」で、個と全体性の矛盾の苦悩を読んだ話。

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幸乃はやはり不幸だった

物語を通して、やはり幸乃は不幸だったと感じました。

その不幸は彼女が「イノセント」つまり無垢で無防備だったということに集約されますが、自分の幸福を自分で考え出せず、ただ漠然とした「他人に必要とされたい」という幻想に引っ張られてそれだけに生きたことが何よりの不幸だったでしょう。

サイコパスな人間に翻弄された、無垢で受け身な人間の哀しい物語だと言えるかもしれません。

しかし考えてみれば、考える力も、育つ環境も、外部からの刺激も、自分の力で与えられるものではありません。偶然生まれ落ちた環境、つまりほぼ全てが外部要因で決まります。

今のところこれを言い表せる言葉は、不幸しか思い当たりません。

それにしても、「集団に属したい」「離れたくない」という感情が自殺に追い込むという心理は、実社会においても往々にして見られるのではと考えさせられます。

自分が大事にしていた幻想を失いたくない。
そこから外れたくない。
それゆえに自分自身を追い込み、死を選ぶことで幻想を完成させようとする心理。

これを自覚して、そこから自由になることができれば、もっと人は自由に生きられるのではないのかなと夢想してしまいます。

それと本作に何人も登場するサイコパスな人間。

彼らのような人間を見抜き、距離を置くことも気をつけたいなと改めて感じました。

価値のある読書体験ができたと感じます。

 

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