【3000文字チャレンジ】雑草は語りかける。心を解き放て。

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霧島もとみです。

こぼりたつや(@tatsuya_kobori)さんが3000文字チャレンジという企画を仕掛けています。

お題をもとにジャンルを問わず、テキストだけで3000文字の文章を作ろうという企画です。

5Gの普及により時代が動画にシフトしようという時代の流れに逆行するかのようなチャレンジに、僕は魅力を感じました。

なぜなら僕はテキストを書くことが好きだからです。執着しているからです。

というわけで参加することにしました。

チャレンジを通して文章力を磨いていきたいです。

(以下、チャレンジ本文)

雑草。

この言葉を聞いてどんなイメージを浮かべるだろうか。

「たくましい」
「何度踏みつけられてもまた立ち上がる」
「見せてやれ!雑草魂!!」

僕が浮かべたのはこんなイメージだ。ついでに言うと、自分自身の境遇をそれに当てはめて感情移入までしているみたいだった。

だが待って欲しい。

これが本当の雑草という意味なのだろうか。
僕はわずかな疑問を持ち、言葉の定義を調べてみることにした。

大辞林を引くとこう書かれている。

【雑草】
人間が栽培する作物や草花以外の、いろいろの草。田畑・庭園・路傍・造林地などに侵入して、よくはびこる。多数の帰化植物が含まれる。「ーーを抜く」

驚いた。
雑草の定義とは「侵入者」なのだ。

人間が管理する区域にふさわしくないとされた草たち、それが雑草なのだ。例えば畑。畑には作物を植えている。その作物以外のすべての草は、土の養分を搾取して作物の成長を妨げる邪魔者だ。

これらの草は作物の順調な成長を妨げて、仕上がりを悪くし、ひいては農家の売上を減少させる。また「美味しくて綺麗な作物を食べたい」という市場の消費者の幸福を減少させる。

つまり大いなる邪魔者でしかない。だから侵入者とされて、雑草と呼ばれている。

それが雑草の本来の意味だ。

さあ、どうだろうか。先程持っていた僕のイメージに当てはめてみよう。
ついでに視点を区域の管理者側に移してみよう。

「たくましい」→「人の敷地に勝手に入ってきやがって、方っておいたらどんどん増えやがる。この邪魔者が!鬱陶しいほかこのうえない!!」

「何度踏みつけられてもまた立ち上がる」→「何度排除してもまた増えやがる。ああもう本当に鬱陶しい!農薬で黙らせてやる!!」

「見せてやれ!雑草魂!!」→「人が用意した養分を横取りしようなんて、侵入者・略奪者以外の何者でもない。この侵入者魂が!!」

景色はがらっと変わってしまう。

そう、雑草とは邪魔者・不必要とされた者であり、雑草魂とは侵入者魂なのだ。

管理する側にとってみればそれは邪魔者でしかない。もはや犯罪者扱いだ。

どうだろうか。

あなたはまだ「雑草魂」という言葉にたくましさを感じ、親近感を覚えるだろうか。

僕はもう嬉しげに「雑草魂を見せてやる」なんて言えない。

「侵入者の心意気を見せてやる」という意味がかぶってしまうからだ。
百歩譲って「アウトローの心意気を見せてやる」ならちょっと格好良いかもしれないけれど、違法なことは同じで、やはり僕にはなじまない。

つまり雑草とは、管理者にとって不要なものであり、邪魔者であり、違法者なのだ。

だが一方で、雑草は純粋な草でもある。

長い年月をかけて進化を繰り返し、環境に適応し、たくましく生き抜いてきた生物としての草でもある。それがその場を管理する人間、つまり強者によって邪魔者とされた瞬間から、彼らは雑草と呼ばれるのだ。

本来はただの草であり、畑に植えられている作物と生物学的にはそんなに価値は変わらない。
作物と雑草とを分けているのは、管理者にとって価値があるかどうかだ。

管理者とは人間であり、さらに視点を大きくすれば社会とも言える。

だとすれば雑草とは、この社会において不要とされた存在になる。

そう、僕が、僕たちが雑草という言葉に感情移入してしまうのは、まさにこの点に理由がある。

きっと僕たちは、雑草に対して、「この社会で不要とされた存在」というドラマを無意識に感じ取っている。その背景には、自分自身が「社会に必要とされている存在=社会エリートではない」と感じているという心象が隠されている。

そう考えると納得できる。

僕はエリートではないから、雑草に親近感を覚える。

一方でエリートと呼ばれる人たちはどうだろうか?
仮にエリートという存在がいたとして、その心情は想像するしかないけれども、おそらく雑草なんかには目もくれないだろう。

むしろ路傍の草に対して、秩序を乱すものとして敵意を感じ、踏みつけているだろう。

僕はこういう人物像を想像して「エリート」と呼び、こういう人たちが管理している社会に対して距離感を作り、自分自身をそこから外れたものと考えて切なさを感じている。

だから雑草に対して親近感を覚えているのだ。

これは、僕が、僕自身が管理者によって必要ないと区別されたものと考えているのに他ならない。そこにはどこか被害者ヅラめいた心理も隠れているだろう。

自分は無垢な人間で、管理者という存在によって仕分けられたに過ぎないのだと。

だがもう少し考えを進めてみると、これは大きな間違いだということに気付く。

もしあなたが僕と同じ様に「社会に必要とされていない雑草だ」というような感情を持っているとしたら、あなたの家の庭を見て欲しい。もし庭がないのなら、自分の部屋に、ゴキブリが入ってきたことを想像して欲しい。

そう。

あなたも同じ様に、あなたが管理している区域において、雑草を区別していることに気付くだろう。庭に生えた雑草は抜く。部屋に入ってきたゴキブリは排除する。なぜならそれらはあなたにとって価値がなく、邪魔だから。

被害者ヅラしないで欲しい。あなた自身も雑草とそうでないものを仕分けている管理者なのだ。

それは悪でも何でもない。きっと人間自体が持っている作用なのだろう。自分自身が生きていくために、価値のあるものとそうでないものを区別することは当然だ。飢えた時に食べられるものを植えておきたいし、それを邪魔するものは排除しておきたい。

悲しい・悲しくないの問題じゃない。
弱いヒトという動物が弱肉強食の自然界で生き抜くために身に付けてきた作用なのだ。

つまり誰にも、その人にとっての雑草がある。
あるのだけれど、結局のところは、その人にとって価値があるかどうかで仕分けを行ったただの価値観の現れでしかない。

草は草。
人は人。

雑草と呼ばれようがどうしようが、本来の価値や存在には何も変わりはないのだ。

だけれども僕たちは社会にとって「雑草」「価値がない」と言われると悲しさや悔しさを覚える。自分自身の生来の価値を見失い、途方に暮れてしまう。それはなぜだろう。

それは社会という大きな共同幻想の中に自分を捉えているからだ。

多数の人間によって作り上げられている共同体は、物凄い影響力を持つ、もっか地球上で最強の生物となった。その生態は、人間が作り上げた社会そのものがシステムとして機能し、個々の人間の能力を吸い上げて大きな力を発揮している。

社会とは本来は虚構の存在だ。
人間が作り出したルールという実体のないものを、大多数の人間が「ある」と認識できる力を持ったことが、ホモ・サピエンスが最強となった大きな理由であることを歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが「サピエンス全史」で指摘した。

その虚構を実体と感じる能力の発現は、現代で共同幻想と呼ばれている。

ちょっと言い方が難しくなってしまった。簡単に言うと、もしあなたが自分自身を雑草だと考えているのなら、あなた自身が社会の枠に強力に囚われているということだ。

非エリートとして社会に悲しみを覚えると同時に、誰よりもその社会を強く認識してしまっている。囚われてしまっている。

そのことに気付いて欲しい。

社会は社会、人は人。

社会がどうあろうが、社会にとっての僕の価値がどうあろうが、僕自身の生来の価値は何も変わらない。僕は僕だ。雑草と呼ぶ人は呼べばいい。僕は僕の世界で管理者であり、必要に応じて「社会」というフィールドにアクセスしていけばいいだけだ。

僕は今日そのことを思い出した。
雑草という言葉がこのことを思い出してくれた。

共同幻想の作用は強力だ。分かっていても、気がつけば自分自身を社会の一部としてのみ認識してしまう強さを持つ。それは安心感や所属感を生み出す、本能的な欲求でもあるからだと考えられる。

それは食欲と同じだ。生きていくための必要な本能だ。

腹が減れば食べるように、共同体への所属感が薄まれば人恋しくなる。

けれども空腹感が僕の全てじゃないように、社会への共同幻想が僕の全てじゃない。

雑草という言葉は社会の投影でもある。

心を解き放て。

雑草を見るたびに、僕はこうつぶやくだろう。

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