不本意な結果的菜食主義者の憂鬱

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僕は生まれてからこのかた、一度もを食べたことがない。その結果、知り合いには菜食主義者として知られている。

近頃はすっかりその装いがいよいよ堂に入ってきた感がある。だが僕は、決して菜食主義者ではない。よそ行きの作り笑いの内側には岩をも溶かしそうな情念を溜め込んでいる、きっと誰よりも肉を食べてみたい、二十六歳のただの男だ。

いつも思う。どうして僕は肉を食べたことがないのかと。

ある程度の大人はみんな食べている。何なら、その辺を歩いている大学生や高校生だって食べているに違いない。

僕の前では食べたことが無いフリを装っているが、父や母だって間違いなく食べているはずだ。
妹もそうだ。僕は知っている。

妹は気が付いていないが、この間、家に誰もいないと勘違いしていたのか、友達が持ってきた肉を分け合って部屋で食べていたのを僕は知っている。壁の向こうから肉の美味しさを伝える会話がありありと聞こえてきたからだ。

僕は壁に耳を当ててじっと聞いていたから知っている。

街を歩いていて仲の良さそうな男女が目に留まると、これから肉を食べに行くのだろう想像してしまう。みんな食べているんだなあと考えると、苛立ちと落胆が混じったため息が漏れてくる。それに他人のことなのにぐうと腹が鳴る。

そう、肉のことを考えると腹が減る。だが今の世の中はある意味便利で、肉の情報がとにかく簡単に手に入る。僕はしばしば、例えば食レポ動画を見ながら、その味の想像をおかずにしてご飯を食べる。そうすることで食べた気にはなり、とりあえず空腹は満たされる。

けれども、何かしこりのようにわずかな空腹感がいつも残る。もう一つ見えない胃袋が自分の中にあるのだろうか、と考えてしまう。

いっその事、肉のことを忘れてしまえばどんなに楽だろうかと思う。だが便利さの逆効果として、雑誌やテレビ、インターネット、迷惑メールなど、とにかく世間は僕に肉の美味しさをこれでもかと見せびらかしてくる。新聞すらもそうだ(僕はプロ野球の最新情報が読みたいだけなのに!)。とても忘れられる環境ではないのだ。

じゃあ食べたらいいじゃん、と他人は言うかもしれない。それはそうなのだが、僕だって何でもいいというわけではない。折角なら、理想の肉を食べたいと思うのだ。
テーブルに座るまでのストーリーだって重要だ。厄介だと自覚しているのは、とにかく情報だけは人一倍多く仕入れているからか、副作用としてその理想がより高級化し、かつ方向性が偏っていて、自分自身でハードルを相当に引き上げてしまっている事だ。

このまま一生肉を食べることが無いのかと落ち込むこともある。肉を食べられない自分には生きていく価値が無いのかと悲嘆に暮れることもある。

いっそもう消えてしまいたいと人知れず涙を流すけれど、いつか食べられるその日を諦めきれずに、結局は次の朝を迎えてしまう。そのまま何も無かったかのように布団から出て、僕は次の一日を過ごす。

そうして結果的菜食主義者の憂鬱な日々がまた続いていくのだ。いつかここから抜け出せる日を夢見ながら。
そんなある日、街で草食系男子を特集しているというCS番組の女性レポーターに急に声を掛けられた。

「そこのお兄さん!年齢を教えてください」

「ええと、二十六歳です」

「突然ですみません。お兄さん、童貞ですか?

ああ。僕とは違い、世間はオブラートに包んだ物言いはしてくれない。

僕は、僕にできる精一杯のほほえみを顔面に作りながら、はい、と短く答えた。

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