「寂しさ」は本能レベルの欲求。悲しいことじゃない。

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こんにちは、非モテで彼女いない歴28年の歴史を持つ男、霧島もとみです。

「寂しい」「寂しさ」という言葉に胸を傷ませる方は多いのではないでしょうか。

僕もその一人です。かつて非モテのど真ん中に暮らしていた頃には、寂しさのあまりに胸に大きな隙間が空いた感覚を持ち、苦しんでいました。

ところでこの「寂しさ」って何なのでしょう?

当時の僕は寂しさを感じることは弱さだと思っていました。それを悲しいと考え、「自分は弱い人間だ」と自分自身を更に追い詰め、苦しめていました。

でもそこに正解はありませんでした。ますます寂しさは強くなり、さらに自分自身を追い詰めていくという負のスパイラルしか存在しなかったのです。

これについて、とある事から気付きがありました。

「寂しい」は人間が本能レベルで持っている感情であり、悲しいものじゃないという気付きです。

食欲や性欲といったものと同じように、人間が生まれつき持っている一つの欲求が「寂しい」という感情だと。

だから当然にあるものであり、たとえ寂しさを感じたとしても、それを悲しいと考えて苦しむ必要なんて無いんです。

この気付きを紹介させていただきます。

こんな方にオススメ
・非モテに寂しさを感じている
・人一倍寂しがりや
・寂しい=悲しいと考えてしまう

人間は集団行動を行ってきた動物

気付きは「サピエンス全史」という本を読んでいた時のことでした。

人間=ホモ・サピエンスは約20万年前に東アフリカで進化を迎え、その後、1万3千年前までの間に他のホモ属を滅ぼして地上を征服したと言われています。

征服の最大の力となったものが「認知革命」で、現実世界にはない「虚構」を存在するように認識できる能力を持ったことで、動物の限界を超える集団行動が取れるようになったと著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は指摘しています。

この集団行動が、動物としての人間の強さであるということがヒントになります。

集団行動が得意な個体と、集団行動が苦手な個体だと、どちらが生き残りやすかったでしょうか?

そう、集団行動が得意な個体の方が生き残りやすいです。何十万年単位の生存競争の中で、そのような個体が選択的に多く残ってきたということは簡単に想像できるところです。

「寂しさ」を本能に備えたほうが生き残りやすかった

集団で過ごす人物

では、集団行動が得意な個体とはどんなものか。

これを考えたとき、本能レベルでその欲求を持っている個体が最も得意な個体だと言えるでしょう。

これは例えば食欲を考えれば分かります。

私達は栄養が不足すると自然と「腹が減り」、「食べたいという欲求」が起きてきて何かを食べようとします。そして食べると満足します。

ここに意識的な働きは感じません。勝手に腹が減り、食べたいという欲求が起きます。食べなければならないから食べるのではなく、勝手に食べたくなるから食べるのです。これが食欲という本能です。

もし食欲という本能が無ければどうなるでしょうか?

栄養が不足しても「食べよう」という欲求が起こらないため、自分自身の意思で、能動的に「食べる」という行為をしなければなりません。

もしも「空腹=食べなければならない」という知識がなければ、栄養が不足して苦しんでいるのに、なぜ自分が苦しんでいるかも分からないまま死んでしまうかもしれません。

食べ物が不足しているような状況では、生き抜くことさえ難しいでしょう。

これと同じことが「寂しさ」にも言えます。

集団行動を取ろうとする本能として「寂しさ」を感じる個体と、「寂しさ」を感じない個体とを比べたとき、集団行動がより得意なのは「寂しさ」を感じる個体です。

偶然に「寂しさ」を本能的に感じるようになった個体がいたとしましょう。

  • その個体は「寂しさ」を原動力に本能的に集団行動を取れる
  • 集団行動を取る個体は生き残りやすい。

こうして生き残ってきた子孫が今の人間だと考えると、「寂しさ」を感じる本能を備えていることは、むしろ当たり前のことだと考えられます。

これが、「寂しさ」が生存競争の中で残された本能だと考える理由です。

「寂しさ」は集団への所属欲求の表れ

では「寂しさ」が何なのかを考えてみます。

寂しさを感じる対象は様々で、人であったり、集団であったり、場所であったりします。その中でも一番強いのは人や集団に対する寂しさでしょう。

集団行動を取ることへの本能が「寂しさ」であるとしたら、当然のことです。

つまり「寂しい」という感情が沸き起こった時は、集団行動を取れていない状況に対して不安を感じさせ、集団行動を取らせようとする所属欲求がかきたてられている状態です。

何か自分が所属したい人や集団、場所に対して、そこから離れている。
あるいは離れていると感じている。

それに対して、そこへ所属させようという本能的な衝動が「寂しさ」なんです。

集団への本能的な所属欲求の表れなんですね。

こう考えると、「寂しさ」の印象が変わってきませんか?

何か心の一部が欠けた…というような情緒的なものではなく、生きるための機能として備わっている装置のようなものというように考えることができるからです。

寂しさに悩まされる人は多いと思いますが、それに比べると食欲に悩まされる(過食症などの例はありますが)人は少ないと思います。

それは「あって当然」と認識しているからです。

実は寂しさもそれと同じなんです。

寂しさの存在を認めて、受け入れよう

集団で歩く画像

こう考えていくと、「寂しさ」というものの心理的な負担がぐっと減ってくると思います。

あって当然のもの。本能的な装置のようなもの。

そうしたら後は「寂しさ」を感じたとしても、それを当たり前のように受け入れればいいだけです。

ああ、自分は所属欲求が起きているのだなと。
否定せず、力まず、ただ存在を認めればいいんですね。

後はその欲求にどう対処するかですが、たちまち何かに所属することが難しいような状況なら、代替手段で対応するというのも一つの方法です。

例えば僕はコミュニケーションが苦手(寂しさは強いのに!)で、友達を誘って遊びに行くということが簡単には出来ないので、代替手段としてUVERworldのライブの一体感を思い出したりします。そのために映像や音楽を聴きます。

ほかにはオンラインサロンにロム専で参加してみたりとか、ささやかな所属欲求を代替する方法を探っています。

あるいは何かに没頭することで一旦忘れたりとか…。様々な方法があります。

大事なのは「寂しさ」の存在を認めたうえで、振り回されずに、冷静に対処することだと思っています。

ああまた所属欲求が湧いたな。しょうがないな。

くらいで対応することで、僕の寂しさの痛みはぐっと減りました。

 

「寂しさ」は本能レベルの欲求という考え、いかがだったでしょうか?

僕の経験からは、強くオススメします。

「サピエンス全史」については中田敦彦さんのYouTube大学で紹介されている動画で概要が分かりやすく説明されていますのでリンクを貼っておきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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