【書評】村上龍「半島を出よ」で物語に込められた共有する感覚を体験した

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こんにちは、霧島もとみです。

村上龍の「半島を出よ」という小説をご存知でしょうか?

村上龍という名前は聞いたことはあるけど…というのが僕の正直な実感でしたが、かなりベストセラーな小説なんだそうです。

実はこの小説は長い間僕の本棚で積ん読されていました。

いや。正直に言いましょう。

長い間、借りパクしてました

もう十年近く前になるでしょうか…とある先輩から「面白い本貸すからYou読んじゃいなよ☆」と押し付けられるように貸し出されたこの本。

上巻509ページ・下巻591ページという大ボリュームなんです。

なんという取っ付きにくさ。

しかも「ここが面白いんだよ!」という魅力の紹介も一切ナシという雑な貸し方でしたので、必然的にお蔵入りとなっていた訳です。

その長年の棚卸を今回ようやく出来た訳でほっとしているところですが、しかしなるほど、面白い本でした。

福岡が北朝鮮特殊部隊に制圧されるという危機的な状況を描いた物語も凄かったのですが、登場人物に込められた「共有する感覚」のエピソードが強く心に残った読書体験を紹介します。

「半島を出よ」の簡単な概要

北朝鮮軍の精鋭特殊部隊が反乱軍(高麗遠征軍)を称して福岡市に潜入・制圧し、最終的にはそこへ12万人の兵隊を送り込んで日本から独立させ、朝鮮半島と日本の間に新たな軍事緩衝地を確保する…という政治・軍事的なストーリーです。

日本は経済的に行き詰まっており、頼りにしていた米国にもそっぽを向かれて国際的にも孤立し…という危機的な状況として描かれています。

でもこの作品は国家間の争いを描いた作品ではありません。

なぜなら高麗遠征軍に対して反撃を仕掛けるのが日本政府ではなく、「イシハラ」を中心とした社会から排除された少数者たちというぶっ飛んだ話だからです。

概要を簡単に図にするとこうなります。

半島を出よ・概略図

練りこまれた作戦により電撃的な制圧を見せる高麗遠征軍に対して、日本政府は何もできない集団として描かれています。最優先事項がなく何も決定できない、本土が攻撃された経験がなく対応が取れないなどの描写がリアルです。

制圧された福岡市は早々に九州を封鎖した日本政府に諦めを感じ、独自に高麗遠征軍との共存を図るしかない…という完全に負けちゃったねという話で淡々と進みます。

ところがそんな高麗遠征軍に「イシハラたち」のグループが独自に戦いを挑むんですね。

この荒唐無稽とも思えるストーリーが、緻密な描写のもとありありと描かれているのが「半島を出よ」です。

エンターテイメントとしても十分過ぎるほどに面白かった。

でも僕が読書体験のなかで強く感じたのは「共有する感覚」についての描写でした。

登場人物たちの心情の移り変わり

「共有する感覚」のことは、主要な登場人物たちである高麗遠征軍のメンバーと、イシハラたちグループの心情の移り変わりに強く現れています。

高麗遠征軍のメンバー

北朝鮮の精鋭部隊員である彼らは、北朝鮮の国家理想のみを共有する者達として描かれています。

訓練によって親しくしないことを叩きこまれた彼らは極めて無機質で、北朝鮮を出発した時は「言いたいことを言いなさい」と会話を促されても「言いたいこと、探すことできません」というような状態でした。

もちろん笑うこともありません。

ところが福岡を制圧してしばらくたった頃、そんな無機質だった者達が冗談を交わし、笑い合うようになった様子がさらりと描かれます。

本国を離れた開放感や規律の緩みとしての側面もあるかもしれませんが、それだけではない何かが込められていると読みました。

イシハラたちグループ

イシハラたちのグループは、とにかく一般常識から考えれば支離滅裂な人間たちの集まりです。

中心人物であるイシハラもよく分からない人物だし、集まっている面々もひどいもの。

殺人者、毒虫愛好者、悪魔教、武器商人、爆発物マニアなどで、他者と関係を作ることができずに殺人や破壊行為を普通の事として行った者ばかり

社会からは完全に排除された彼らは、イシハラの不思議な魅力に惹きつけられ、また生活の場所を与えられているだけの存在です。
仲間意識もなく、もちろん団結なんてものもありませでした。

ところがイシハラが高麗遠征軍を「敵だ」と認識したことから、彼らは変わっていきます。

作戦の立案、実行という段取りを経ていくうちに彼らはその目的に向かって協力行動を取るようになり、軍隊を出し抜くほどの作戦を進行させていきます。

バラバラで支離滅裂だった彼らが最後に体現したのは、美しさすら感じる完全な一体感でした。

きっと筆者が書きたかったものの一つに間違いない。僕はそう感じました。

描かれる「共有する感覚」とは?

高麗遠征軍とイシハラたちグループの変化の背景にあるのは「共有する感覚」だと言えます。

それは本作の描写から読み取ることができます。

幾つかを抜粋してみます。

友だちに必要なのは共通の話題だ。誰を殴るかとか、チェ・チョルスとか、マドンナとか、そこにいる人間がみんな興味を持つような共通の話題が必要だ。

共有する感覚のエキスなどというものが実際に見えるなんて、そんなときは、一生で一回か二回か三回しかなかとでしゅ。

気持ちや精神が安定するというのは、自分が外部の世界のどこかにぴったりと収まっている感覚だった。今の自分が外部の世界にフィットしていると感じられることなど、これまではなかった。それは論理や理屈ではなく、直接五感に響くものだ。

これらに象徴されている自分と外部とを共有するという視点を持ったとき、高麗遠征軍、イシハラたちグループの変化が、共有する感覚のダイナミックな現れであるように見えてきます。

筆者が持つ「共有する感覚」を言葉で説明するのではなく、それを人間の行動として描いたので見てください、と言えるかもしれません。

だからでしょう。

彼らの行動を読者として追体験したとき、僕にはその時間が何か素敵でキラキラ輝いたものに感じました。

同時に考えてしまったのが、僕の人生で、彼らのように「共有するエキス」のようなものが見えたことがあっただろうかという疑問です。

…しかし、すぐには思い浮かびませんでした。

思えば僕は異常性は無いながらも、他者と共有する能力が乏しい人間だったのかもしれません。いや、そもそもそんなことを考えたことがなかっただけかもしれませんが。

このことを考えさせられただけでも、この作品を読んだ意味があったと思います。

とにかく凄い小説だった

物語を支える設定、細部の情景、情報量、人物描写がとにかく緻密で膨大で、圧倒的なリアリティーを感じました。

恐ろしいのが巻末の参考文献の数。

北朝鮮関連だけで72、その他住基ネットや国際法、軍事関連などの多岐にわたってその数なんと257!!

これだけの資料を読み込み、物語を構成し、小説の世界に落としこむなんて想像しただけで汗が吹き出て倒れそう。

刊行されたのが2005年3月で、小泉純一郎が日朝首脳会談の1回目を行ったのが2002年9月(2回目が2004年5月)ということを考えると様々に難しい時期でした。

その中で書かれたこの作品には、政治的な指摘や批判なども含まれているとも考えられますが、その中で共有する感覚という人間の心理を描いたところに、やはり僕は強い印象を持たずにはいられませんでした

最後にこの本を貸してくれた先輩にこの場を借りてメッセージをお届けします。

確かに面白かったです!
ありがとうございました!
ていうか貸したこと覚えてますか?
ちゃんと返しに行きますから、キョトンとしないでくださいねーーー!!!

 

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