霧島もとみです。
先日、5歳の子どもと2人で「映画えんとつ町のプペル」を見てきました。
私は何を隠そう西野亮廣さんのファンです。以前はオンラインサロンのメンバーでしたし、書籍は3冊も持っています。絵本は持っていません。
さて「映画えんとつ町のプペル」です。怒涛の宣伝攻勢で私の期待感はもう右肩上がり。期待度MAXでいざ劇場に行ってきた…のですが、
いまいち面白さを感じられませんでした。
正直に言います。「鬼滅の刃」の方が面白かったです。
でも「つまらない」ではないんですね。絵本の世界観をそのまま再現した美麗なアニメーション、上質な音楽、俳優さんたちの名演技。それぞれのクオリティは素直に高かったと思います。
上映中は楽しめましたし、見に来てよかったなと思いましたし、端々ではちょっとウルっと来たりもしました。
でも面白さは感じられなかったんです。
それ以来ずっとモヤモヤしていましたが、思考を整理することで「面白さを感じられなかった私の理由」が見えてきました。おかげで少しスッキリしました。
その理由は大きく3つです。
- 私の映画の面白さの基準が「没入×感動」だった
- 映画に没入できなかった
- 西野亮廣が見えすぎた
ということでこの記事では、「映画えんとつ町のプペルに面白さを感じられなかった私の理由」を紹介させていただきます。
※子どもはかなり楽しんでいたようで、何度も私に「映画えんとつ町のプペル」の話をしてきました。
理由1:私の映画の面白さの基準が「没入×感動」だった
「面白さ」の意味は人それぞれに違います。
映画で私が「面白さ」を強く感じる時はどうだったろう?と考えると、
・映画に没入できたとき
・映画の内容に感動を覚えたとき
でした。そしてこの2つが同時に成立する時、MAXに「面白い」という感情が生まれているという点に気づきました。
没入できれば、感動がなくても面白い。
感動を覚えれば、没入が浅くても面白い。
でも没入できて、さらに感動を覚えれば、最高の時間を過ごしたと感じることができる。心の底から「面白かった」と感じられる。
映画館に足を運ぶとき、私はこの掛け算をいつも無意識に期待していたようなのです。
ですが「映画えんとつ町のプペル」にはこれらを感じられなかった。
だから「面白さ」を感じられなかった。
私の面白さの基準にはハマらない映画だったということです。
そこで次に、なぜ没入できなかったのかを考えてみたくなりました。
理由2:映画に没入できなかった
私は「映画えんとつ町のプペル」に没入することができませんでした。
スクリーンで繰り広げられる物語に対して感情移入ができず、なぜか客観的に見えてしまっていました。
およそのストーリーを知っている、つまりネタバレだったから?
いや違います。ネタバレしていても没入は出来ます。たとえば鬼滅の刃なんて漫画そのままのストーリーだったのに、めっちゃ没入してましたから。
「映画えんとつ町のプペル」の映像や音楽の美しさは素晴らしいものでした。だからこそ、没入できなかったことには何か理由があったはずです。
ということで映画への没入を阻害した要因をあらためて考えてみると、2つのことに思い当たりました。
違和感を感じた
「あれ?何か変だな?」という違和感を感じてしまうと、そこに意識がいってしまい、途端に現実に引き戻されてしまう…という傾向が私にはあります。
これは私の個人的な要因ですけれど。
この違和感が何かというと、「西野亮廣が見え過ぎた」ことでした。これは次の項目でもう少し詳しく書きます。
敵が見えない、危機が弱い
物語の中には、主人公たちの「敵」になるようなものは存在します。でもいまいち弱い。絵本の世界観上やむをえないのかもしれませんが、強烈な行動原理を見せないし、恐怖を感じることもない。
また、主人公のルビッチが「星を探す」という原動力も演出としては弱いように感じます。別に星が見れなくたって死ぬわけでもないし、大問題が発生するわけでもないんですよね。
ここが心を揺さぶるための、「面白さ」を感じさせるための装置としては弱いなあと感じました。
敵→主人公→敵→主人公の振れ幅がもっと欲しかったなあ、という感想です。でもまあ、こういう「面白さ」を求める映画ではないのかもしれないですが。
では最後に、「西野亮廣が見えすぎた」ことを書いておきたいと思います。
理由3:西野亮廣が見えすぎた
上映中、常にスクリーンと私との間に「西野亮廣」の姿を感じました。
私が「西野亮廣」のファンであること、それによる事前知識が豊富であることが原因かもしれないのですが、
映画の全部が西野亮廣が語っている言葉に聞こえてしまいました。
主人公、他の登場人物も全て西野亮廣の言葉。
決めゼリフは特にその色が濃い。いくら登場人物が話していても、私には西野亮廣が喋っているようにしか聞こえなかったんですね。
これが映画の世界への没入を大きく阻害していました。
その理由はなんだろうと考えると、例えばこんなことを思いつきました。
台詞に劇中での裏付けが感じられない
劇中の台詞を唐突に感じることが多かったです。特にブルーノの台詞。彼のキャラと、西野亮廣の言葉が出てくることにギャップを強く感じました。
ブルーノは西野亮廣のように理性的で天才なキャラクターなの?
また、主人公サイドだけでなく、敵の言葉にも西野亮廣が普段語っている言葉を感じました。
台詞の裏付けが劇中の設定ではなく、どうしても西野亮廣にあるように思えてしまうんですよね。
いわゆるキャラ立ちができてない状態です。というか西野亮廣としてのキャラが立っていたように感じてしまいました。
だから西野亮廣の姿を私は見てしまったのではないかなあと思います。
通貨「レター」の話
えんとつ町成立の背景となる重要な設定なんですけど、劇中では何か唐突すぎて違和感を覚えました。
というよりも「おっと西野亮廣ワールドをここにもぶっこんできた!」という西野亮廣感を強烈に感じました。
ファンである私はレターポットのことを当然に知っているので気づきます。これがまた映画の世界から現実へと思考をシフトさせちゃったんですね。で、レターポットは文字なのに、映画の中では貨幣として扱われていることに「この違いはなんだろう?」と考えこんでしまったりして…。
映画から別の世界へ思考が飛んでしまいました。
これらの要因により、
西野亮廣が見えすぎた→映画に没入できにくかった→「面白さ」を感じられなかった
ということになったのだろうというのが私の整理です。
まとめ
以上、「映画えんとつ町のプペル」に面白さを感じられなかった私の理由を書かせていただきました。
あるいは「信じぬくんだ」というメッセージが、目の前のことで精一杯になっている今の私には響く余裕がなかったのかもしれません。
見る人・見るタイミングによって響く箇所は違うし、見る点も違いますからね。
でも、西野亮廣ファンとして見ずにはいられない映画でしたし、それに絵本の中の世界を美麗な映像で見る体験は極上のものでした。
映画としての面白さは、今後の伸びしろが大きいと期待しています。
ターニングポイントになる映画として引き続き注目していきたいです。