霧島もとみです。
前回の「はじめに」に続き、今回は第1章として「非モテ」について書いていきます。
「彼女いない歴28年の僕が非モテを語ろう」というコンテンツを作る!そのきっかけと「はじめに」
僕は自分が「非モテ」であることに壮絶なコンプレックスを持ち、長い間苦しんできました。
一般的に「非モテ」というと「異性を好意を持ってもらえない人、またはその状態」というような意味ですが、今回改めて考えて、僕はもっと複雑な意味付けをしていたことが分かりました。
非モテの何が辛いのか。
どういうところにコンプレックスを感じ、苦しむのか。
僕が抱え込んでいる異物を1つずつ、晒していきたいと思います。
「彼女いない歴28年の僕が非モテを語ろう」のコンセプト
その男は全くモテなかった。ヤラハタを余裕で通り過ぎ、「30歳までに彼女ができなかったら死のう」と思い詰めた苦悩の日々を過ごしていた。
彼女いない歴=年齢の日々をようやく抜け出したのは、28歳の時だった。
そんな男が、結婚して子供を授かり、今は何食わぬ顔をして家庭人を気取っている。そして、非モテのコンプレックスを抱えたまま生きている。
この物語は、そんな男の非モテな半生を振り返る物語だ。
男が非モテに陥った理由や、そこで足掻いていた姿を見て笑ってほしい。
もしもあなたが同じように非モテにコンプレックスを持ち、苦しんでいるとしたら、男の無様に足掻いた姿が少しでも救いになれば幸いだ。
世界中の非モテ(自分含む)に幸あれ!
それでは、ここから本文です。
1章 非モテとは何か
非モテとは何か?それは「やれないこと」
物語の始まりに、まず、「非モテ」という言葉が表す意味を摑んでおこう。
非モテとは、モテに非(あら)ず、と書く。
つまり「モテない」ことが、この言葉が表す意味だ。
※電影少女(桂正和)の作中で、主人公の弄内洋太が「モテナイヨーダ」と揶揄されていたことはもう昔の話だ。
だとすると「モテる」ということを知らなければ、僕たちは非モテを語ることは出来ない。
改めて考えてみよう。「モテる」とはどういうことなんだろう。
僕が「モテる」「モテない」を意識し始めたのは思春期の頃だった。多くの男がそうだろう。
当時、僕が「モテる」という言葉に持っていたイメージがこれだ。
- カッコ良い
- そいつのことを好きな女子がいる
- 好意を告白されたことがある
- 好意を告白して受け入れられたことがある
- 彼女がいる
大人になるに従って、このイメージは変化していく。大学を卒業して社会人になったころには、こんな感じになっていた。
- いつも女性と楽しそうにしている
- 女性とすぐに馴れ馴れしく話せる
- コンパで連絡先をすぐ聞き出せる
- 初体験は10代だ
- 複数人数と付き合ったことがある
さて、ここから抽象化して考えていくと次のように定義できるだろう。
・モテる = 容易に異性を好意を持たせることができる人、またはその状態
おそらくこれが一般的な「モテる」ということになるだろう。
だが、この認識は僕になぜか響かない。
僕が苦しんでいたことは、もう少し違うところにある。
そうだ。僕が「モテる」という言葉に持っていたイメージはそんな綺麗事じゃない。
心の根っこに深く絡まっている重苦しい情念が捉えていた答えをさらけ出そう。
・モテる = やれる
つまり、これが「モテる」という言葉の意味だ。
この他にも色々な表現方法はあるけれども、突き詰めると必ずここにたどり着く。
だとしたら、非モテという言葉の意味はどうなるだろうか?
答えは簡単だ。
・非モテ=やれない
そう。
これこそが僕を苦しめていた「非モテ」だ。
その証拠に、今、僕の精神は恐怖に震えている。
だがもう一度宣言しよう。
非モテとは、やれないことだ。
僕が見ていた非モテの世界
さて、非モテという言葉の意味は掴むことができた。
驚くほどに簡潔であっさりしている。
「やれない」というのはただの事実でしかなく、こんなことがどうしてコンプレックスや苦しみを生み出すのかと不思議に思ってしまう。
僕という1人の人間が生きていくためには、やれなかったって別に困りはしないし、死ぬわけでもない。
それはそうだ。
ただの事実は僕達を苦しめやしない。僕の精神を焼き焦がしてきた「非モテ」を説明するためには、大事なパーツが欠けている。
そのパーツは、僕と、僕以外の男たちと、女だ。これを加えてはじめて、僕の主観的な非モテという言葉は完成する。
それはこういうことだ。
・モテ = やれる僕以外の男たち + 女
・非モテ = やれない僕
つまり、僕以外の「やれる男たち」がいて、その世界に加わることができない「やれない僕」がいる。
さらに女たちは、常に「やれる男たち」の世界にいて、「やれない僕」の世界にはいない。
この人間の構造が、僕を苦しめてきた「非モテ」の正体だ。
正確に言えば、僕が「非モテ」として主観で持ってしまった概念だ。
やれるとかやれないとかの事実ではなく、やれる人たちとそうでない僕という、社会的な比較の問題として僕は「非モテ」を捉えていた。
他人との比較だからこそ、コンプレックスを抱き、苦しみを覚える。
「やれる大多数の人達と僕は違う」という絶大な孤独感にさいなまれる。
さらには満たされない性欲・社会欲が加わり、思い詰めることで周囲が見えなくなり、強烈なストレスに晒され続けるようになる。
これが僕の、僕を苦しめてきた「非モテ」の正体であり、コンプレックスを生んできた理由だ。
極めて主観的で捻じ曲がった考えを持ってしまっていたのだ。
(「第2章 こうして僕は非モテになった」へ続く)
彼女いない歴28年の僕が非モテを語ろう【 第2章 こうして僕は非モテになった】
僕の非モテをまとめた記事はこちらです。
▼彼女いない歴28年の僕が、僕の非モテを語ります。
いい話です。
僕自身、ずっとモテなくて、「女性にモテないことが辛いのか」「女性にモテないことで男性の中で負け組にされるのが辛いのか」わからなくなっていました。(今もそうかもしれません)子供の頃のように毎日顔を見ることで、勝手に妄想を膨らませて「好きになる」ことはよくありましたが、ある程度の年齢になれば、そんなこともなくなり、好きな子(子供の頃も本当に好きではなかったと思います。なぜなら勝手に好きと思っていただけで、話したこともなく、容姿から勝手にイメージを作っていただけでしたから)もいない状態が続いています
ただ、若いころがんばれば少しはモテたかどうかわかりませんが、最早がんばっても難しい(いくつからでも恋愛はできると言いますが、極度の経験のなさは圧倒的にやる気を奪います)年齢になったなあ、これでよかったのかなあと思うようになりました
一方で、仮に多少モテても同じくらいの年齢になれば、やはりモテなくなるでしょうから、あまり変わらない(つまりモテないことが問題ではなく、年をとったこと自体が問題)のかなあと思います
まあ細かくは書きませんが、僕のこれまでの人生は、他人に話したら驚かれるほどの非モテであり、自分でもすごいなと思うほどです ただ、世間的には異常でも僕的にはこれが通常運転だったので、自分ではそこまで違和感はないです
長くなりました。すみません、結論としては、好きな子をモテ男にとられたとか(子供のころはよくありました とられたというより、大好きなあの子はかっこよくてスポーツができる子が好きだと判明したという話です)なかったので、男の中の最底辺に位置づけられることの方が辛いのだろうと思います 他の男が苦しいこともあったかもしれませんが、楽しいこと、ドキドキすること、気持ちいいことを数多く経験しているのに、僕はゼロですから
読んでいただきありがとうございました。
この記事は自分なりの非モテ経験の整理でしたが、あるいは一番辛かったのは「モテないことの何が辛いのか頭で考えてもわからないのに、辛い」ことだったかもしれません。理屈ではなく無意識中での自己評価が、自分を苦しめている結果になる気がします。不思議なものです。冷静に考えれば自分の生活に「モテ」は必要ないし、想像の中でしかないですが仮にモテたとしてもおそらく社会的には悪影響ですらないかもしれないなと思ったりもする(空想にすぎませんが)のに、どこかでは「モテ」を自分に求めて苦しむパーツがあるのを感じます。
そのパーツの存在や、モテという存在・行動の矛盾を感じてからは、自分の中での「モテ」の優先順位が果てしなく下がった気がします。あるいは、年齢が単純に過ぎたことによる価値観の変化からかもしれません。