買い物客で賑わうアーケード商店街のベンチに座り、行き交う人々を眺めている男がいた。
男がそこに座ったのは朝のことだ。今はもう夕方を迎えようかという頃になっていた。
男は飽きもせず、かといって一心に没頭するでもなく、ただ眺めるという行為にその身を任せていた。
無表情という訳ではないが、存在感の薄さが際立っていて、外見からは何を考えているのか想像できない。
しかし危うさとか、怖さとかいった雰囲気は持ち合わせていない。男はごく普通に、景色の一部として溶け込んでしまっていた。
だから気に留める人もいなかった。
なぜその場所に座っているのか。
なぜ眺めているのか。
実は、その男自身も分からないのだった。
******
(あれ・・・)
そこを通りがかった川田雪絵は、自転車を押して歩く姿勢のまま立ち止まった。
高校の通学途中に見かけた不思議な男が、朝と同じ場所に座り、変わらない様子で眺めていることに気付いたからだ。
じっと見ていると、目が合った気がした。
引き込まれるように雪絵は男に近付き、話しかけた。
「あのう。何を見てるの?」
男は無言のまま、雪絵の方角を眺めていた。
「今朝、私が学校に行くときにも見かけた気がするんだよね。・・・ずっといるの?」
その時、男に変化が起きた。
瞳に光が宿り、表情が動き出すと、腰掛けていた椅子が小さく音を立てた。
あ、今度こそ目が合った。
雪絵がそう思った時、柔らかい花のような匂いがふわっと漂い、男が落ち着いたトーンで話し始めた。
「僕に・・・何か用?」
「あ、喋った・・・良かった。ひょっとしたら幽霊かもって思ってたんだ。私、そういうの見える人なんだよね」
「ふうん」
「朝からずっとここにいたの?」
「分からないけど、たぶん、そう」
「えっ、本当に?座って何してたの?本でも読んでたとか、それとも約束をすっぽかされて途方に暮れてたとか」
「そうだね。僕は、通り過ぎる人たちの景色を眺めていただけ。何か考えていたような気もするけど、考え過ぎたのか、忘れちゃったみたいだ」
「つまり、考え事してたんだね」
「そういうことになるかな」
「ふうん・・・あ。悩みでもあるとか?」
「考えるべきことは山程あるけど、悩みというものではないと思うよ」
「あ、そうなんだ」
雪絵は少し困惑していた。
眼の前の男、自分よりも少し年上に見える男はどうみても「普通」ではないのだけれど、なぜか意識が引き寄せられて目が離せない。
「ところで。不躾で恐縮だけど・・・悩みがあるのは、僕じゃなくて君のほうじゃない?」
「えっ」
「痛みと不安、愛情や憎悪、いろんな素材が溶け込んで絡み合って・・・でも不思議だね。あくまでその香りには芯があって、かき消されそうになりながらも、一方では全部を支えようとしている」
「うわ、すごく当たってる気がする。君、セラピストか何か?」
「違うよ。僕はただ、君の匂いを眺めただけ」
「匂い?」
「うん。僕には匂いが見える」
「ええ?匂いは鼻で感じるものでしょ?」
「そうだろうね。でも今の僕には、匂いが分かる。目で見るようにくっきりと感じ取ることができる」
「やっぱり不思議な人ね…。あ、そうだ。まだ名前言ってなかったね。私、雪絵っていうの。あなたは?」
男は少し困った表情を見せた。
「僕の個体には名前がない」
視線を一度斜め左上に向けた後、雪絵の方へ戻してこう続けた。
「僕は”三千世界”と呼ばれている。今の僕は、”フレグランス”だ」
*******
雪絵は自転車を押しながら「三千世界」と名乗った男と歩いていた。
その理由は、雪絵が衝動的に男を自分の家へと誘ったからだ。少しためらった後に男は承諾し、雪絵の家へと一緒に向かっていたのだった。
道すがら雪絵が聞いた話を整理すると、大体こんなところだった。
・男が意識を持ったのはごく最近のこと。
・それ以前のことは何も知らない。記憶が無いのとは違うらしい。
・時々、声がどこからともなく聞こえてくる。
・その声は自分を「三千世界」と呼ぶ。
・定期的に自分の属性が変化する。今は”フレグランス”であり、匂いに変換して世界を認識できる。
・認識したものを匂いとして発現することもできる。
・発現は受動的で、自分ではコントロールできない。
・世界を理解したいと考えているがその方法が分からず、さまよっている。
・気がついた時には、椅子に座って人通りを眺めていた。
どれも現実離れした話ばかりだったが、雪絵は素直に受け入れていた。
男の淡々とした口調や表情、幽霊と見間違えた現実離れした存在感の薄さ。
何より、話す内容に連動して男の匂いが様々に変化していく不思議な事実が、雪絵に受け入れる根拠を与えていた。
「つまり、神様の使いか何か?」
「神様って?」
「えっと・・・この世界を作った存在?全てをつかさどる万能の、みたいな?」
「”声”からは、そんなものは感じないね」
「どんな感じなの?」
「そうだね・・・もっと機械的な感じだね。何の匂いもしない、何かの装置みたいな・・・」
「ふうん。面白いね」
「声に匂いがするわけ無い」と思いながらも、でも、男がそう言うのだからそうかもしれないと受け入れてしまうのも、雪絵の癖だった。
*******
「ふうん、それで君は、この家に父親と二人で暮らしているんだ」
部屋に入ってから、雪絵はずっと自分のことを話していた。
男から「きみのことを教えて欲しい」と希望があったからだ。
自分でも分からないくらい、雪絵はありのままに話していた。
好きな音楽や小説のこと。
友達や、学校での勉強のこと。
雪絵が中学生の時、逃げるように出ていった母親のこと。
母親が連れて行った弟と妹のこと。
雪絵は父親を一人にできずに残ったこと。
「でもどうして、君の母親は出ていったんだろう」
「うん、それなんだけどね・・・」
雪絵が話そうとしたとき、玄関からガチャリ、バタンという音が聞こえてきた。
雪絵の表情がこわばったことに、男は気付いた。
「雪絵、帰ったぞ。誰か来ているのか?」
太さのある声が玄関から聞こえてくると、雪絵は部屋のドアを開けて、大きく返事をした。
「うん、お父さん。友達が来ていたの。でももう帰るから大丈夫」
すぐに雪絵は男の方に向き直り、
「ごめん。もっと話を聞きたかったけど、今日はこれで帰って」
と小さな声で早口に告げると、男の手を取り、部屋の外へと誘った。
と、そこで雪絵の動きが止まった。
父親の姿がもうそこにあったからだ。
「なんだ。そんなに慌てなくていいじゃないか。友達が来ているなら、父さんにも紹介してくれよ」
「うん、今日は時間がなくて急がないといけないみたいだから。ほら、行きましょう」
雪絵は男の手を引っ張り、父親の横をすり抜けるようにして玄関へと向かった。
男が脱いでいたジャンバーを手渡すと「ごめん、またね」とだけ言い、追い出すように玄関の外へと送り出し、ドアを閉じて鍵を締めた。
男は突然の展開に呆然としていたが、ドアの向こうから微かに父親の怒鳴り声が聞こえてくると、すれ違う時に感じた匂いを思い出した。
思わず眉を潜めたくなるような強烈な匂い。
嫉妬と怒り。
衝動的な興奮。
吐き気がこみ上げてきて、表情が歪んだ。
父親という言葉が与える印象からは、大きくかけ離れた匂いだった。
******
どうして、雪絵は自分に声をかけてきたのだろうか。
商店街で声をかけられたあの時、雪絵から漂っていた匂いがよみがえり、男はそこを離れる事ができなかった。
ふと、ジャンバーのポケットに硬いものが入っていることに気が付いた。
何かが入っている。
取り出すと、鍵だった。
男の持ち物ではなかった。
入れたのだろうか。
雪絵が?
何のために。
男は少し考えたが、やがて、その鍵を玄関のドアに差し込んだ。
音もなく鍵は回った。
ドアを手前に引いたその隙間から、たちまち父親の怒号と、雪絵の押し殺した悲鳴が漏れてきた。
******
男が部屋のドアを開けたとき、目に映ったのは、うつぶせに倒れている雪絵と、その背中に刃物を添わせている父親の姿だった。
おそらく表面を傷つけているのだろう、肌にうっすらと血が滲んだ背中には、いくつもの傷跡が縞のようにこびりついていた。
それだけじゃない。雪絵の体には殴打によるものとみられる痣が浮かび上がり、部屋中が、竜巻でも起こったかのように散乱していた。
父親が男に気付いた。
「何だお前えええ!」
立ち上がり、手にした刃物を振りかぶりながら叫び、男の方へ突進してきた。
と、その刹那。
突進してきた父親が、その勢いのままに前へと倒れ込んだ。
全身が小刻みに痙攣していたが、倒れた手から力なく刃物が抜け落ちると、そのまま、ぴたりと動かなくなった。
男は立ちすくんだまま、その光景を見ていた。
その瞳には、冷たく鈍い光を携えていた。
「どう・・・したの」
倒れたままの雪絵から声が聞こえてきた。
「君・・・なんでしょ」
「ああ。大丈夫かい」
男は父親に近づくと、うつ伏せに倒れていた姿勢から仰向けへとひっくり返し、表情を確かめた。次に胸に手を当てると、一呼吸置いて雪絵に返答した。
「死んでいる」
「えっ」
「おそらく、僕の”フレグランス”だ」
「・・・」
「僕の能力が、咄嗟に発動したんだ。君の父親が僕に向けた殺意がそのまま匂い・・・おそらく致死性のガスに変わり、それを吸って死んでしまった」
「・・・」
「不本意だけど、僕の能力が殺した事になる」
雪絵は痛みに構わず体を起こすと、動かない父親のところへ近寄った。
死んだ父親の姿を目の当たりにして「お父さん」と小さく呟くと、その胸の上に力なく倒れ込んで泣いた。
「君は、この父親に虐げられていたようだけどーー」
男は話すのをそこで止め、あとは、泣きじゃくる雪絵の姿をただ見つめていた。
沸騰するように湧き上がる鮮烈で複雑な匂いに翻弄されながら、それでも決して目を離さなかった。
******
「私ね。君を見た時に、何かが変わるかなって予感がしたんだ」
雪絵は話し始めた。
「まさか死んじゃうとは思わなかったけどね。斜め上に行っちゃったって感じかな」
男は黙って聞いていた。
「真面目でいい人だったんだけどね、母さんと上手くいかなくなった前後から、ああやって時々自分を抑えられなくなるみたいだった」
「もう酷かったよ。痛いし怖いし。でも私が耐えたら、また元の優しい父さんに戻るかもって、私にも悪いところがあったんだろうしって、ずっと耐えてたんだ」
「不思議だよね。苦しみから解放されたはずなのに、死んだことが悲しくてどうしようもないの。自分の全部が無くなったような気がして、力が入らないの」
雪絵が男の方へ顔を向けた。
「ごめん。巻き込んで悪かったね」
「いや、僕がここへ来たことも、ポケットの鍵に気付いてもう一度入ってきたことも、僕自身の行動だ。君はきっかけを与えたに過ぎない」
男は静かな声で聞いた。
「君は、これで良かったのか?」
「・・・分からない。でも私、少しほっとしてる。怯えて暮らして、それを一人で抱え込む毎日が終わるって思って」
「だから一応、お礼を言っておくよ。お父さんには悪いけど」
「それには及ばない。僕は、自分自身の能力をコントロールできなかっただけだ。それに、むしろお礼を言うのは僕の方だよ」
「君が?」
「うん。君が僕にこの世界をくれた、そのお礼」
「私が・・・世界を?」
「僕の世界は”声”だけが頼りで、それ以外のものは全て、ガラス越しのように見えて無味無臭だった。何の関わりもある気がしなかった。でも君をきっかけに、たくさんのものが押し寄せてきて・・・今は全てのものが肌で感じられるように変わった気がするんだ」
「ドアが開いた・・・みたいな?」
「そんなイメージだね」
雪絵は少しだけ笑った。
「そしたら今日は、私たちの共通の誕生日だね。私は、お父さんのいない私の誕生日。君は、向こう側の世界からやってきた誕生日。おめでとう、とはちょっと言いにくいけどさ」
「誕生日か、なるほど」
男は思いついたように言った。
「それなら、僕に名前をくれないか」
「え?」
「”三千世界”は集合体としての呼び名だから、僕の名前じゃない。もし君から名前をもらうことができたら、僕はその名前を口にするたび、君と出会った今日のことを思い出せる」
黙っている雪絵に、少しの間を置いて、男は静かに呼びかけた。
「どうかな」
「蒼汰。前に憧れてた人の名前。それでいい?」
それを聞いて、男は顔をほころばせた。
「いい名前だ。ありがとう」
「こんな適当でいいの」
「うん。嬉しいよ。今から僕の名前は、蒼汰だ」
******
「じゃあ、元気で」
「大丈夫なの?これから消防とか警察とか来て、あなたも捜索されたりするかも知れないけど」
「大丈夫だよ。今の僕は”フレグランス”だって言っただろう?匂いはすぐに、風に吹き消されてしまうさ」
「不思議な人ね。やっぱり幽霊だったのかな」
そう言うと雪絵は、男ーー蒼汰のジャンバーのポケットにもう一度その手を伸ばし、今度は鍵ではなく、一枚の紙を入れた。
「私の番号と、たぶん、新しい引越し先になる住所を書いといた。何かあったら、連絡してきてもいいよ」
「ありがとう。それじゃあ、行くよ」
「君はどうするの?その、三千世界だっけ。それを探して、またどこかで何かを眺めるの?」
「そうだね、たぶん」
蒼汰は空を見上げた。
街の明かりに照らされた夜空を一瞥した後、雪絵の方を振り返って、凛とした声で別れを告げた。
「ありがとう、雪絵。強く生きて」
「さようなら、蒼汰。また会おうね」
ジャンバーに微かに残る雪絵の香りと、すれ違う街の全てを身体に感じながら、蒼汰は夜の向こうへと歩いていった。
******
3000文字チャレンジの毎週のテーマを繋げて、連続で創作したら面白いんじゃないか?と思い立ったことから、毎週能力が変わる「三千世界」という主人公を思い浮かべ、勢いのまま書いてみました。
結果として面白いものになったのか、そもそも3000文字チャレンジのやり方としてアリなのかはまったく怪しいところですが、とりあえずチャレンジとして続けてみようと思います。
できれば3000文字ちょっとくらいのボリュームにまとめられたら・・・と思っているんですが、今のところ、この辺が精一杯ですね。
バランス難しいです。
これまでのチャレンジより疲れた割には、ちゃんとした形に出来ませんでしたが、書いてる僕自身はとても面白かったです。
で、次のお題が「勝負」です。
いきなり暗礁に乗り上げる感じアリアリですが、何とか形にしたいと思っています。
勝負の能力が宿った三千世界・蒼汰が向かったところとは?
読んでいただきありがとうございました。
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