僕はこうして暗闇を乗り越えてきたシリーズ「死について考えてみた」

こんにちは、霧島もとみです。

いきなりですけど、僕はこれまでとにかく悩んできました。
今も悩んでいることに変わりはないですけど、20代の頃はもうそれはひどく悩んでいたと思います。
そりゃもう完全に暗闇でした。

自分がモテないことを発端にした様々な悩みの中で、しまいには「死にたい」とか「生きる意味って何だろう」とかを悶々と繰り返していました。

でもそこを越えてきて、今があります。

このブログの一つのネタとして、僕の20代から始まった暗闇の時代、そこを乗り越えてきた話を書いていこうと思っています。

心に大きく空いた埋められない空隙に覆い隠され、周りが何も見えなくなった時代。
孤独や虚しさ、無力感に押し潰されそうだった時代。

そこをどう僕が生きてきたのか。
同じように悩む人がもしいるのなら、きっと参考になると思います。
同じように悩んだ僕がどのように苦しんできたのか、考えてきたのか、読んでみてください。

その中でおそらく一番大切なことから書き始めます。
それは「死について考えてみた」こと。

「死にたい」という気持ちへの自分なりの答えを探す中で、自然と問いが生まれました。
そもそも死って何なんだろうか?と・・・。
結果として、死を考えることは、自分自身の生を考えるためにとても大事なことだと気付きました。
それらを思い出しながら、また、今の考えも改めて整理しながら書きます。

敵を知り己を知れば百戦危うからず。
死を考え、死を知ることは今も自分の武器になっています。
それでは僕の「死について考えてみた」に少しお付き合いください。

1 現状

・死は身近にいない

ここでいう「死」とは人間の死のことです。
それは基本として、僕たちの身近にはありません。

例えば、日本では年間で約134万4千人が死んでいると推計されています。
(平成29年度厚生労働省 人口動態統計の年間推計)
平成29年12月1日の日本の人口が1億2669万5千人ですから、1年間で日本人の約1.1%が死ぬという計算になります。約100人に1人です。
こう考えると多いように感じるかもしれません。

ですがそのほとんどは目の当たりにしていません。
有名人や事件になるとメディアで報道されもしますが、直接その死に触れることはないでしょう。
僕の身近と言える人・・・20人とかくらいでしょうか?そんなにいないかな?
だとすると他人の死を身近に感じる機会はやはり少ないでしょう。

また、自分自身の「死」についても、同じく身近に置いていない場合が多いでしょう。
重病や劣悪な環境を抱えていて死と隣合わせという人は、自分の死を常に身近に置いています。でも、多くの人はそうではありません。
例えば風邪を引いて高熱を出したからといって、死を感じることはごくごく稀な体験でしょう。

自他共に死は身近にいない、ということが多くの人に当てはまるのが今の日本だと言えます。

死は身近にいない存在なのです。
そして僕もそうでした。

・死を肌感覚で感じていない

そうなると僕たちは限られた機会でしか死を感じることが出来ません。
極めて近い祖父母や両親などを除いて、基本的に身近で人の死に接することは無いと言えるでしょう。

僕たちが普段触れているのは、
「人が死んだという情報」
に過ぎないケースがほとんどでした。

つまり、多くの人は死を知識でしか知らないことになります。
死を肌感覚で感じていないんです。

それは、死を自分ごととして認識できていないということです。
死は基本的に「他人事」だということです。

・死という言葉遊び

だから死という本当は重大なことがらを、僕たちはいとも簡単に言葉で使います。
めちゃくちゃ気軽に使います。

例えば、
「 死んだほうがマシ」
という言葉があります。

これを言葉通り受け止めると、死んだほうがマシなのなら、さっさと死ねばいいということになります。
そうですよね?
死ぬよりも酷い状態にあるのなら、比較の結果として当然に死を選択することになるでしょう。
でも絶対に死にません。

例えば、ちょっとした喧嘩やいさかいなんかでも、
「死んじまえ!」とか「殺すぞ!?」
とか言うようなケースがあるでしょう。

これも、その場ですぐに相手を殺害するための具体的な行動を取ることはほぼありません。
せいぜい睨みつけるか、唾を飛ばすか、ちょっと手が出ちゃうかという程度でしょう。
そのつもりが無いことを平然と口にしています。

相手も、これを言われたからといって「コイツ殺す気だ・・・」と本気で死を覚悟したり、「殺られる前に殺るしかない」と殺意を持つことは稀でしょう。

つまり、死、または死を連想させる言葉を、僕たちは割と軽く使っているんです。
まるで言葉遊びです。
死に対して実感を持っていない証拠です。

それはやはり死が身近にないから。
とことん他人事だからなのでしょう。

・私が触れた死から感じたこと

私が触れた死の経験をちょっとお話しします。

偶然にも、親戚や知人関係以外で色々な人の死を見ることがありました。

病院で亡くなった方、自宅で亡くなった方、孤独死で発見されるまでに時間のかかった方。
明らかに死んでいると思われた方の脈を念のため取ったこともあります。
「屍霊のはらわた」的なホラー映画で見たような遺体にも接したこともあります。
(※正直、見た目とかニオイとか凄いものがありました。)
現場確認を行うであろう警察官の方々には心から尊敬の念を覚えました。

なので多分、死を肌感覚で感じる回数は平均より少しは多かったと思います。
決して軽はずみに「死」という言葉を口に出来なくなりました。

(僕は「死のう」とか「死ね」とかの言葉は基本的に使いません。
死という言葉に具体的な実感を持っているからです。
だから「死ねばいいのに」と僕が仮に言っているとしたら、それは心の底から「死んでもらいたい」と思ってもらって大丈夫です。)

このような経験を通じて感じたのは、「死とは終わり」ということでした。
当たり前のことではありますが。
生命活動が止まり一定時間が経つと死後硬直が始まる。火葬されると灰と骨になる。見つかるまでに時間がかかると腐乱もする。

死んだ後は、もう本人には何をどうすることもできず、また、何をどうされたとしてもそれを知る方法も無いんですよね。
つまり終わりってことです。

こうして僕は、死に対して肌感覚の実感を持つと同時に、「死とはつまり、生命の終わり」というシンプルな認識を持つようになりました。

2 死とは

・死とは終わり

生命にとって、死とは終わりです。

「君が死んでも生命は終わらない。次の生命に受け継がれて永遠に続くんだ」ということも視点を変えれば確かに言えるとは思います。
生命を構成していた有機物は分解され、別の生命体の構成要素となっていきますから。
ですがそれはあくまで化学的・物理的、あるいは文化的・思想的な話です。

僕という一つの生命、「自分自身」にとっては、死とは終わり以外の何者でもありません。

・死とは現象

僕はさらにドラスティックに死を考えていきました。
できるだけ情報を削ぎ落として、死の本質って何だろうと考えました。
そうすると次の要素を満たすものが「死」だとして定義できると考えました。

<要素1>生命体が
<要素2>不可逆的に
<要素3>その活動を完全に停止すること

この要素の一つでも欠けると「死」とは言えません。
つまり「死」とは、それ自体で存在するものではなく、他の要素によって記述されるものだ、と考えました。

つまり死とは「現象」なのです。
死という実体は存在しません。
現象に対して人間が便宜上付けた概念が「死」なのだと、僕は整理しました。

死を考えるためには、まずこの立ち位置をスタートにする必要があります。

3 死にまつわる幻想

・人間は死に幻想を持っている

ところで死という言葉を耳にした時、どんなイメージが浮かぶでしょうか。
あるいは、どんな感情が浮かぶでしょうか。

そのほとんどが、僕たち自身が、あるいは社会や文化が創りあげた幻想です。

死とは本来、先程の三つの要素で構成される現象にしか過ぎません。
しかしそれ以外の意味を伴って使われることがあまりにも多いです。
それらは全て人間が創りあげた幻想、物語です。

例えば、死への恐怖を克服するための幻想だったり、共同体の結束を強化するための幻想だったりします。

簡単な例でいえば、天国とか地獄とかがその例です。

これらの幻想は社会の安定に対して凄まじい効力を発揮してきました。
死ねばあの世へ行く、というだけで死ぬことの恐怖が何か和らぐ気がしませんか?
穏やかな社会を作っていくためには必須だったのでしょう。

しかし、一方で副作用が生じました。
幻想が想像以上の効力を発揮した結果、死の本来の姿がとても見えにくくなってしまいました。

僕たちが死について想いを巡らせる時、死そのものではなく、その周りを何重にも覆った飾り物の方を見てしまうようになったんです。

・天国、地獄。あの世、この世。

割とメジャーな飾り、幻想がこのあたりです。

しかし死について考えるとき、これら幻想の存在を考慮する必要はありません。

誤解しないようにしておきたいのは、存在の有無を議論するのではないということです。
そのつもりは全くありません。それらの存在の有無は僕には分かりませんから。

死んでみないと実際にアクセス出来ないようなものに賭けるのはリスクがあまりにも大きすぎるというのが僕の考えです。
物語としてはとてもステキです。
ですが、死を考えるときには、目が眩んでしまいますから見ないようにするということ。

とりあえずは、今生きている世界での死だけを考えれば十分かと。

・輪廻転生を無防備に信じるのは冒険すぎないか?

生まれ変わったら〜」という言葉を聞くことがあります。
あるいは、誰々の生まれ変わりとか。

これも非常に物語性の高い、優秀な幻想です。
例えば「僕の地球を守って」というヒット漫画があります(ちょっと古い)。このストーリーを構成するための前提となっている仕掛けが輪廻転生でした。
付け加えて、輪廻転生に作品オリジナルルールを付加することで、より感動力高く仕上げられています。

僕はこの漫画が大好きです。
涙なしには語れませんし、今も大事に持っています。

でも、だからといって輪廻転生の存在を前提に死を考えるのは、あまりにもリスク高です。
面白いからといって無防備に信じるのはちょっと冒険が過ぎます。

神経細胞のネットワーク以外に人間の記憶や意識を保持する情報体が確認されていない以上、現時点ではロマンの域を出ません。

生きてる人がいくら訴えても、死んだことがない人なんですから、説得力はないと思ってます。

やはり、今生きている世界での死だけを考えれば十分です。

・生への幻想にも繋がっている

死に幻想を持つことには、もう一つ大きな副作用があります。
実はこちらの方が深刻な話かもしれません。

死に幻想を持つと、死の姿がぼやけます。
死がぼやけて見えるようになると、それに連動して、今自分がその真っ只中にいる「生」までもがぼやけていくようになるんです。

なぜでしょう?

例えば「あの世」というものを信じるとしましょう。具体的にどうこうというのではなく、漠然としたイメージでもいいです。
その場合、その人には、今生きている現実とは別に「あの世」というもう一つの現実があることになります。

その認識を持つとどうなるかというと、今生きている現実への感覚が鈍くなります。
現実の世界が霞の中に紛れ、自分の中で現実に対する重み付けが弱くなっていきます。
さらに進行すると、気がつけば「あの世」のことばかり考えるようになり、今と「あの世」を常に対比するようになり、判断の基準までを「あの世」のことに求めるようになります。

こうなるとその人の生は、もう完全に幻想の中にあると言えるでしょう。

つまり死への幻想を持つということは、人間の認識の中では、自動的に生に対しても幻想が反映されるという構造になっているということです。

僕たちが今、死を他人事として認識し、また、死に幻想を持っていることはこれまでに話したとおりです。
であるならば、私たちは同時に、生を他人事として認識し、また、生に幻想を持ってしまっているということです。

今の現実の「生」を他人事として生きるってどうでしょうか。
きっと、多くの人が望ましくないことだと考えると思います。
少なくとも僕はそう考えました。

自分の「生」は自分ごととして生きるべきじゃないか?
幻想から抜け出して現実を生きるべきじゃないか?

そんな問いが生まれました。

・死への幻想を手放そう

ではどうすればいいのか?と次は考えました。

その答えは、
「僕たちは、死への幻想を一度リセットして手放せばいい」
ということでした。

それは決して今信じている幻想や、死の姿を捨てろということではありません。
信じているもの(仮に信仰と呼びます)は、それはそれでいいと思います。その場合は、信仰を持ちながら、一度ありのままの死を見ればいいでしょう。

重要なのは、次に当てはまる場合です。

特に信仰は持ってないけど、死について色々なイメージを今までに与えられ、気付かないうちに幻想の中にハマっている状態。

多くの人はこの状態にあると思います。
普段意識しなければしないほど、風習や慣習によって、あるいはそれ以外の情報過多な現代の日本では、気が付かないうちに死への幻想を持たされています。

なぜかというと、死というものはどうしてもインパクトが大きく、人の無意識下に訴求しやすいテーマだからです。

しかしこのままでは幻想の死と生に目を眩まされ、自分の生を生きられません。

まず一度、死への幻想を手放し、ゼロの視点で死を見つめないといけないなと。
繰り返しますと、死は本来、

<要素1>生命体が
<要素2>不可逆的に
<要素3>その活動を完全に停止すること

で構成される現象です。

単純に「現象である」という事実のみを死として捉える。
そこに僕は集中しました。
座禅で呼吸に意識を集中するのと似ているかもしれません。

4 生きる。

・生とは、死んでいないこと

死への幻想を一旦手放した僕が次に考えたことは、生についてでした。
生きるって何だろう。
なぜ生きているのだろう。

ところが、どれだけ考えても答えは出せませんでした。
アイデアは幾つも浮かびましたが、どれも「これが正解だ」という決定打がない。
悩みに悩んだ結果・・・
一旦、考えるのを止めました。

次に取り組んだことは、整理でした。
整理とは今分かっていることを再認識し、そこから考えること。
死という現象の定義付けから逆に思考することで、シンプルな考えにたどり着きました。
「生とは、死んでいないこと」
これだけはどうにも確からしいと整理しました。

・死を携えて生きる

そして同時に、
「死により、生が終わること」
も確からしいと改めて理解しました。

死と生。
2つの概念は、相互に定義しあうような関係性だと言えるでしょう。
これら2つの概念をぐるぐると思考の中で回転させているうちに、僕はふと体感的に気付きました。
それは生きるという事象の根っこといえる姿でした。

・生とは生命体が生まれてから死ぬまでの活動を言うに過ぎない。
・だから生には本来的に意味はない。
だからこそ、本人がどう考えるかでどうにでも定義付けられる。
・生とは必ず死によって終わる、限られた時間だ。
・終わった後では、どれだけ悔やんでも絶対に取り返すことはできない。

そしてこれらを前提として、自分の「生きる」ことの定義を見付けました。

<生という事実>
・人生はたった1回だけ。
・いつ終わりが来るか分からない。明日か、何十年後か、誰にも分からない。

 

<事実を踏まえた、自分の「生きる」ことの定義>
・今、間違いなく生きているこの時にやるしかない。

簡単に言うと「人生は1回きり」ということ。
それは僕がこれまでに何回も聞いたことがある言葉でした。
馬鹿らしいとも思いました。

でも言葉として聞いたことがあるのと、その言葉が表す意味を理解するのは別の話です。
さらには、意味を理解するのと、意味を体感的に理解するというのはまた別の話です。

僕は「生きる」というその本来の姿を、ようやく体感として理解ができた。
そういうことなのだと気付きました。

そこにたどり着いたのは、死への幻想を手放し、そして死を携えながら生を考えたからです。

・生きるためには死を見つめる必要がある。

このようにして僕は「生きる」ことの意味を体感的に理解しました。

この理解は、「今、間違いなく生きているこの時にやるしかない」というとてもシンプルな事でした。
次は、「じゃあ、今この時をどう生きるか」と自分に問いかけていく作業に繋がっていくわけですが、それは次の機会に書きたいと思います。

この理解には、死について考えてみなければたどり着けなかったと思います。
死への幻想を手放し、死をありのままに見つめることで、逆説的かもしれませんが生というものが浮かび上がってくる。

だから、死について考えることは決して悪いことじゃない。
それは生を考えるために必要なことであり、生きるための力を与えてくれる作業です。
少なくとも僕の場合はそうでした。死を考えることで、生きることの姿が見えてきたんです。

生きるためには死を見つめる必要がある。
今も僕はそう考えます。

5 まとめ

20代の暗闇の時代の中、死について考えてみた僕は、それをきっかけに「生きる」ということの姿を改めて見つめ直すことになりました。

死を考えることは、生きるうえで絶対に必要なことだという確信があります。
死を考えることは、生きることを考えるということ。

死への幻想を手放してリアルな生を見つめ直すこと、ぜひおすすめします!

<死を考えてみた結論>
・知らないうちに死に幻想を持っていたことに気づいた
・死への幻想を手放してありのままを見つめた
・そうすると生の姿がありありと浮かび上がってきた
・「人生は一度きり」の意味を初めて体感できた。
・今生きているこの時にやるしかない。

 

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