勇気とは何なのか。
困難に立ち向かおうとする力。
恐怖に打ち勝つ力。
ファンタジーRPGでの勇者に象徴される姿。
それらが勇気と言われている。
だが、考えが浮かぶ。
なぜ困難に立ち向かわなければならないのだろう。
恐怖に打ち勝たなければならないのだろう。
楽に安全に生きていけるのならこれ以上良いことはない。
恐怖は、危険から自分を遠ざけるための本能的行動だから、単純に逃げればいい。
そこに「勇気」なんて必要ない。
ここに僕は「勇気の嘘」を感じていた。
勇気という言葉の嘘臭さだ。
今現在の自分を守ろうとするならば、勇気なんて全く必要はなく、場合によっては自分を危険に晒すことにもなる。勇気なんて、ゴミ以下の存在だ。
だが、この社会では勇気は美徳とされ、何かあれば「勇気を出せ!」と激を飛ばされる。
それはなぜだろうか。
そして、なぜ勇敢に見える人たちは、なぜ「勇気」りんりんで挑戦していくのだろうか。
答えの仮説として僕が考えたのは、「自分が乗り越えられると信じられる時」と「自分の身以外のもののために立ち向かわないといけない時」が、行動を起こすことができる、つまり勇気を発揮という考えだ。
自分が乗り越えられると信じられる時
勇気を出さなければならないときは、恐怖を感じている時だ。
恐怖に勝てなければ、逃避行動を起こす。
恐怖を乗り越えることができれば、立ち向かう行動を起こす。
この時に経験や、自分への信仰から「この危機は乗り越えることができる」と信じることができれば、恐怖は薄れる。あるいは、薄れなくても、立ち向かう力になる。
これは勇気だと言えるだろう。
この勇気を培うにはどうすればいいだろうか。
一つは、能力や経験値を高めること。
一つは、自分を信じる技術を磨くこと。
こうすることで勇気を培うことができる。
この勇気は、理解しやすい。これを第一勇気としよう。
では次に、もう一つの勇気、「自分の身以外のもののために立ち向かわないといけない時」とは何かを説明する。
自分の身以外のもののために立ち向かわないといけない時とは
これはつまりリスクの比較になる。
自分の身の安全と、それ以外の何か大切なものとが天秤にかかっているという状況で、どちらを優先することが最もリスクが低くなるかという問題だ。
自分の身の安全しかなければ、勇気など必要ない。逃げるのも勇気だと言えるだろう。
しかし、それ以外に、何か大事なものが同時に天秤にかけられているのなら、自分の身の安全に対するリスクを冒してでも、大事なもののために立ち向かうことになる。
客観的にはメリット比較による行動でしかないが、客観的にはこれも勇気だ。
大事なものとは何だろうか?
実は何でもいい。家族でも、お金でも、名誉でも何でもいい。自分が将来的に得られるリターンでもいい。要は、今この瞬間の身の安全よりも優先するべきと思える何かがあれば、勇気があるとされる行動が取れるというのを、第二勇気とする。
第一勇気、第二勇気を育てることで、「勇気ある人」になれる
第一勇気を育てるのにはどうすればいいか。
能力や経験値を高めることは勿論だが、これは長期的な継続が必要だ。
最も手っ取り早い、しかし難しいのは、自分を信じる技術を磨くことだ。根拠はいらない。「自分は出来る」と強烈に信じ抜く努力を続けることで、その思考回路が強化される。
この強化法は様々に言われている内容で、特に目新しいことはない。
今日の気付きは、第二勇気にある。
第二勇気とは、今現在の自分よりも「大事なもの」を持つことで得られる勇気だ。
これを持つためにはどうしたらよいか。
一つは、自分中心の世界から抜け出すこと。自分が中心である限り、自分以外に大事なものを持つことができない。常に今の自分を優先することになるから、第二勇気など発揮できるはずもない。
自分中心の世界から抜け出せば、大事なものができる。
そうすれば第二勇気を発揮する力になる。
もう一つは、自分の未来に希望を持つこと。今の自分に多少のリスクがあっても、自分の未来への希望につながるのなら、それは「今の自分自身よりも優先すること」になる。能力であったり、結果であったり、勿論お金であったりするかもしれないが、今の自分ではなく、将来の自分が手にするもののために行動を起こすことができる。
これも、第二勇気を発揮する力になる。
ということで、今日は勇気について書いてみた。
自分の現状は、正直なところ勇気があるとは言い難い状況だ。
何を言いたいかというと、これからは、自分の第二勇気を育てていくということだ。