霧島もとみです。
メディアで「神対応」という言葉をよく目にします。
企業のクレーム対応や、芸能人やスポーツ選手の対応などが、驚き感心するほど行き届いた対応だった時に使われる表現だそうです。
が、僕はこの「神対応」という言葉に強烈な違和感を覚えました。
神も色々あるけれど、ここでいう神は何を指しているの?
色々な神話で神は厳しい対応をすることもあるけど、なんで行き届いた対応=神なの?
なんかスゲー=神ってことでOKなの?
よく考えると「神対応」という言葉自体がそもそも謎なのですが、そんな謎の言葉を当たり前のようにメディアが使い、視聴者が受け入れている状況が訳が分からなかったのです。
それがきっかけになり、言葉について考えることができました。
その結果「自分の人生を生きるためには自分の言葉が必要」ということに気が付きましたので、それを紹介します。
少しややこしくて長い話になりますが、情報化が進んでいる今では間違いなく大切な話です。良かったら読んでください。
そもそも言葉って何?
辞書で調べてみた
大辞林で「言葉」を引くと10の意味が出てきました。
その最初の一つに、元々の意味を適切に表していると思われる内容がありました。
①人の発する音声のまとまりで、その社会に認められた意味を持っているもの。感情や思想が、音声または文字によって表現されたもの。言語。
ここには、2つの大事な要素が書かれています。
・人間の持っている感情や思想が表現されたものだということ。
・その社会で認められた意味を持っているもの。
噛み砕くとこんな感じです。
・自分が持っている特定の感情や思想に対して、Aという名前を付ける。
・周りのみんなに「この感情をAと呼ぶことにした」と伝え、周りのみんなもそれをAと呼ぶことになる。
・その社会で「A」という言葉が産まれる。
つまり言葉=記号なんですね。
感情や思想を共有するためのツールが言葉ということです。
言葉が感情や思想を追い越す
ところが今や、言葉は単純な記号とは言えなくなってきました。
第一に、言葉はあまりにも多様化・複雑化してしまっているからです。
最初はおそらく一つの言葉=一つの意味だったものが、前後のニュアンスや、組み合わされる言葉によって違う意味を表すことが当たり前になっています。
こうなると、人間の認識が簡単には追いつかなくなってきます。
第二に、言葉を使う機会があまりにも多くなり過ぎているからです。
毎日の生活の中で言葉を使わないことなんて、まずあり得ません。
さらに情報技術の発展で、インターネットやスマホ、あらゆるメディアで物凄い量の言葉が流通するようになりました。
新しい言葉が沸騰するように次々と生まれ、消えていっています。
しかも一つの言葉が社会に伝わるのはあっという間です。
僕たちは嵐のように降ってくる「言葉」を理解・処理するのに日々追われている状況なんですね。
新しい言葉 → 理解する。
新しい言葉 → 理解する。
というスキームをひたすら繰り返しているんですね。
しかし、ここで弊害が生じます。
脳の理解システムが原因だと思うのですが、
言葉そのものが意味をもった実体だという錯覚
を持つようになってしまうんです。
言葉は元々ただの記号でしかなく、実体は個々の人間の感情や思想のはずなのに、言葉が感情や思想そのものの姿であるような錯覚を持ってしまうんですね。
言葉が、本来の感情や思想を追い越してしまうんです。
言葉が幻想に変わる=実体を持つ
なぜそんな錯覚を持ってしまうんでしょうか。
人間は虚構(本当はない架空の物事)を語り、虚構を共有することができる能力を遺伝子的に持っていると言われているそうです。
この能力により、例えば「ライオンはわが部族の守護霊である」という架空の物語が、部族の中では実体を持っているかのように共有されるのだそうです。
このメカニズムを踏まえると良く分かります。
つまり、人間の認知能力のはたらきにより、本来はただの記号=虚構に過ぎなかった言葉が、実体そのものであるかのような錯覚を得るということです。
さらに圧倒的な量の多さ、複雑さ、流通スピードの速さが「言葉の実体化」を飛躍的に加速します。
気がつけば、言葉そのものが実体であるかのような錯覚が、むしろ日常的に感じられるようになっています。
言葉そのものが実体を持ち、力を持つようになっているんです。
しかし、これは危険な状態だと僕は考えています。
その理由を整理しました。
言葉が危険になっている理由
あいまいなものが、あいまいなままで終わる
新しい言葉に触れたとき、まず僕たちはその言葉が表す意味を理解しようとします。
ところが言葉に実体を感じるようになると、言葉が本来表現しようとしていたはずの意味を理解することを忘れてしまい、言葉をそのまま受け取ってしまいます。
記号のはずの言葉を、その意味を確かめずにあいまいな状態のままで受け取り、理解したことにしてしまうんです。
あいまいなものを、あいまいなままで受け取っているんですね。
更にそれをあいまいなまま使う・・・ことになります。
これは危険な状態です。
何気なく使っている言葉の意味を正確に説明できるか?
例えばカタカナ言葉でこんなことはないでしょうか?
「コンプライアンスって大事だよね。」
「俺もそれ感じるわー。めっちゃ大事。」
「ところでコンプライアンスってどういう意味だっけ?」
「えっと、あれだよ、あれ…」
これが言葉をあいまいなままで使っている状態です。
あえてあいまいなままで使用することが必要なシーンもありますが、基本的には危険な状態だと言えるでしょう。
それは、
・自分の認識能力が落ちていく
・言葉に振り回され始める
ということになるからです。
自分の認識能力が落ちていく
言葉は思考の原動力です。
無意識下で行う不随意な思考ももちろんありますが、意識としての思考を行うには言葉が絶対に必要です。
思考とは、感情や思想を明確化し、記録し、分類し、発展させること。
この作業には言葉が不可欠です。
この時に自分の語彙の中にある言葉の意味付けが鮮明であればあるほど、思考が明瞭になります。
言葉は思考を組み立てる基礎材料のようなものです。
では、もし自分の語彙にある言葉があいまいなものばかりだったらどうなるか?
感情や思想は明確化できず、材料があいまい、整理もあいまいで、思考を明確化することは不可能でしょう。
つまり、あいまいなままの言葉を使うということは、自分自身の認識能力を低下させていくことなんです。
考える力が失われていく。
そうなると他人の言葉に左右され、考えに誘導されて、他人の人生を生きるようなことになります。
これは判断力を失った危険な状態だと言えるでしょう。
自分の人生を生きるためには自分の言葉が必要
自分の人生を生きるとは、自分で考え、自分の意思で行動することです。
そのために必要なものは、自分の言葉です。
それも、明瞭な意味付けをもたせた言葉が必要です。
研ぎ澄ませた自分の言葉があれば、それをベースにして自分の思考を削り出していくことが可能になります。
では、どうしたら自分の言葉を持つことができるのでしょうか?
重要な点を3つだけ紹介します。
自分の言葉を持つ方法
言葉は記号に過ぎないという認識をもつ
まず、言葉はあくまで感情や思想を記号化したものという認識をしっかりと持つことです。
言葉に実体はないということを肝に命じ、常に言葉ではなく、言葉が表す実体そのものを注意深く捉えましょう。
例えば、「熱湯」という言葉があります。
これは、煮え立っている熱い湯のことを指す言葉として使われていますが、あくまでその状態を表している記号であり、熱湯そのものではありません。
「熱湯」という言葉自体が熱いわけではないんです。
熱いイメージが湧く言葉というものと、実際に熱くなっているお湯という実体とは、切り離して理解しなければならないんですね。
言葉は言葉。
お湯はお湯。
「熱湯」という言葉が実際に熱いわけではない。
まず、言葉は記号に過ぎないという認識を強く持ちましょう。
言葉を丁寧に使う
言葉をあいまいに受け取り、あいまいに使うようになると、自分の言葉で生きられなくなることは既に書きました。
一つ一つの言葉を丁寧に使う習慣を付けることで、この状態は簡単に回避することができます。
丁寧に使うと、普段使っている言葉や、新しく触れる言葉に対して、次のことを常に意識するということです。
・この言葉は元々どういう意味なのか
・この文脈の中でどういう働きをしているか
・自分が持っている思考とぶつけた時に、どのように整理・理解できるか
こうすることで言葉は先鋭化され、強力な武器へと変貌していきます。
最大の力を身にまとう
言葉を記号として認識し、言葉の先鋭化を継続していくことで、自分自身の思考は常に明瞭化されていくことになります。
そうなると言葉は自分自身にとって最大の武器になります。
あらゆる問題を出来る限り正確に認識し、それに対応する方法を考えることが出来るようになります。
自分の言葉を獲得し、自分の人生を生きるための最大の力を身にまといましょう。
まとめ
言葉って何?ということから話をスタートさせて、言葉が危険になっていることを指摘し、そこから脱却して自分の言葉を獲得するための方法論を書きました。
普段あまり意識することなく使っている言葉ですが、言葉への認識を改めるきっかけになれば幸いです。
言葉についての記事は、今後も継続してより具体的で分かりやすい話を書いていきたいです。
長文を最後まで読んでいただきありがとうございました。