【書評】三島由紀夫「美しい星」宇宙人…って厨二病な文学?観念が人間を支配する構造とは

こんにちは、霧島もとみです。

三島由紀夫の小説「美しい星」を読んだ感想を紹介させていただきます。

美しい星は1962年(昭和37年)に連載&単行本で発売された小説です。

当時は第二次大戦後の東西冷戦時代で、核兵器による人類滅亡・世界終末観が広がっていた頃。その時代背景をもとに、突如「自分は宇宙人だ」と目覚めた人物たちの視点から人間論・地球論を語る物語として書かれたものです。

 

えっ?

なぜ宇宙人?

 

と思いませんか?私は思いました。

空飛ぶ円盤を見たことにより「私は火星から来た宇宙人だ」と覚醒するお父さん。今なら「厨二病」とも言われそうなこの突飛な設定でどんな物語が繰り広げられるのか?

そんなドキドキ感を持って読み始めたこの本でしたが、実は考えさせられる作品でした。

本の簡単な紹介と、私が得た気付きについて書かせていただきます。

「美しい星」はこんな話

主役はとある平凡な一家4人。父・重一郎を筆頭に「空飛ぶ円盤を見る」という体験で自分たちが「宇宙人」だと覚醒します。

父:重一郎→火星人
母:伊余子→木星人
兄:一雄→水星人
妹:暁子→金星人

父:重一郎は宇宙人であるという自覚から「人間を滅亡の危機から救済しなければならない」と決意し、そのための活動を始めます。

一方、仙台在住の助教授・羽黒は同じく空飛ぶ円盤を見て自分が宇宙人だと自覚し、一緒に見た残りの2人と「人間を滅亡させなければならない」と考えるようになります。

重一郎の活動を知ることになった羽黒は、議論を戦わせるために重一郎のもとを訪れます。

二人の論戦が10部のうち2部に渡っていて、この作品のメインテーマともいえる部分となっています。

 

宇宙人から見た人間の姿は?そのたどるべき運命は?

宇宙人一家4人はどこに辿り着くのか?

 

文学性だけでなく、物語としても先が読みたくなってくる作品でした。

「美しい星」で得た気付き

宇宙人?地球人?

登場人物は自分たちを「宇宙人」だとしていますが、本当の宇宙人ではなく、あくまで「宇宙人だと思い込んでいる地球人」として描かれています。

富樫義博のレベルEのように宇宙人が周囲にいるという世界観ではなく、あくまでごく普通の地球が舞台です。

ですが、彼らの思いこみは強固です。

「自分はXX星から来た宇宙人だ」という思い込みのもと、現実を曲解し、都合のよいように解釈し、次々と自分の「XX星人」像を懲り固めていきます。

最初のきっかけは空飛ぶ円盤を見たという体験。

このたった一つの体験をもとに、自分の過去・現在やこれからの体験への意味付けを変え、「自分は宇宙人だ」と思ってしまえる彼らの姿。

三島由紀夫の観察眼で描かれた彼らのリアリティに面白さを感じながら、一方ではどこかうすら寒さを感じました。

私の実生活でも、同じように強烈な思い込みを抱え、現実を曲解している人たちをこれまでにも見てきたことがあったからです。さすがに「私は宇宙人だ」という人には会ったことはありませんけど。でも、思い込みの強さと曲解の鮮やかさはこの登場人物とイイ線いっているんじゃないか?って思ってしまいます。

人間にはきっとこういう性質があるのでしょう。

ちょっと怖くなりました。

ところで話は全然変わりますが、小学校4年生の頃、私は自分のことを「諸葛孔明の生まれ変わりだ」と思っていたことがありました。黒歴史の一つです。

別に空飛ぶ円盤を見た訳でも、三国志の夢を見た訳でもなかったのですが、多分に自意識過剰な早すぎる厨二病患者だったのでしょう。

印象に残った言葉

人間の心理について、核心に迫ると感じた3つの言葉がありました。

まず2つ、紹介させていただきます。

羽黒はこのとき、心が心を、意思が他人の意思を支配するのに、何らの力を要せず、ただ一個の野放図な観念が見つかればそれだけで足りる、稀な適切な瞬間にいたのである。

今こそ羽黒は、三人の共通の過去を、存在のおそろしい奥底にいたるまで、一瞬にして照らし出す稲妻のような観念、そのすべてを閃光の同じ紫に染めなす観念を発見しなければならなかった。

羽黒は「われわれは白鳥座六十一番星あたりの未知の惑星から来た」という観念を絞り出すことで、その場にいた3人の心を統一します。

「ただ一個の野放図な観念」「一瞬にして照らし出す稲妻のような観念」が他人の意思を支配する瞬間を、その構造をありありと見せつけられた気がして、軽い恐れを抱きました。

人間ってこうやって「観念」に支配されるのかもしれない、という恐れです。示唆に溢れた文だと感じました。

もう1つの言葉はこれです。

人間を統治するのは簡単なことで、人間の内部の虚無と空白を統括すればそれですむのだ。人間という人間は、みんな胴体に風のとおる穴をあけている。そいつに紐をとおしてつなげば、何億人だろうが、黙って引きずられる。

読んでドキっとしました。

私自身、20代の頃に「心に埋められない空隙がある」と強く感じていた時期がありました。その自分の体験から、「胴体に風のとおる穴が開」き、そこに紐がとおされて簡単に引きずられていく光景がありありと浮かび、十分すぎる説得力のある言葉に思えたからです。

人間の内部の虚無と空白とには、人間を動かす根源的な力があることを作者は強く感じていたのではないか?と想像させれらます。

虚無と空白とは何なのでしょう。

私に考えられるのは、所属欲求と承認欲求=虚無と空白という事。

小説の主題とは異なるかもしれませんが、私はこれらの言葉がどうにも棘のように刺さって、意識せずにはいられませんでした。

人が自分を宇宙人だと思い込む時って?

「人が自分を宇宙人だと思い込む時って何なのだろう」

こんな疑問を持ちました。

宇宙人でなくてもいいです。XX主義だとか、自分はこういう人間ですという固定観念だとか、主義主張とか、未来の夢とか。

何かの体験をきっかけに「こうだ!!」という観念を自分自身に持つ事って多い気がします。

そのきっかけって何なのだろうと。

 

作中の登場人物は、それぞれが「自分は宇宙人」という事について強い自己を持っています。

空飛ぶ円盤を見るという神秘的な体験を、自分の中に内在していた思想に結びつけて、急激に強固な自己意識を持つに至るんですね。

その自己意識・観念は強烈に描かれていて、妹・暁子のエピソードでは、自分が妊娠しているという事実に対してすら「処女懐胎」「接吻すらしていない」と誤認識させています。

現実すら曲げて認識させるほどに強烈に描かれているんです。

SF的であり、突飛ともいえる舞台設定に一見ばかばかしく思えますし、厨二病的な描写ですが、実は強烈な説得力があるのではないかと感じました。

人間には観念に支配される傾向がある。一旦支配されると、その観念によって現実は捻じ曲げられ、観念を一層強化させる。そういう一面があることを筆者はその観察によって捉えてのではないかと感じました。

本作で示唆されていると私が感じたのは、

経験の蓄積 × 印象的な体験 × 観念

ドンと嵌った時に人間は観念に支配されるという構造です。

この点についてもっと思考を深めてみたいです。

まとめ

三島由紀夫のSF的な小説!映画化もしたよ!という事で気軽に読んでみた本でしたが、人間について示唆に富んだ刺激的な話でとても面白く読めました。

途中の2部に渡る議論は時代背景も違うためちょっと疲れましたが、ゆっくり読んでみるとまた違う視点が得られるかもしれません。

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