霧島もとみです。
ダウンタウン松本人志さんの「死んだら負け」という発言が賛否両論の波紋を起こしました。
「自殺しないでほしい」
というメッセージは批判されるものじゃないことは明らかです。
それなのに否定的な意見が湧き上がったということは、メッセージを届けるために使った言葉の加減で、何か違う意味が伝わったように捉えられたということなんでしょう。
でもちょっと待ってください。
「死んだら負け」
に似た、ある一つの言葉が、僕の記憶からふっと浮き上がってきました。
そう。
スラムダンクの安西先生の名言です。
「諦めたらそこで試合終了ですよ」
諦めるな!最後まで戦え!と優しく背中を押したあのシーンは、読者の胸に熱く刺さりました。
僕はこのシーンを批判する人に出会ったことがありません。
それなのに、なぜ松本さんの発言は批判されるのでしょうか。
そこで、ダウンタウン松本さんとスラムダンク安西先生の言葉を比べてみて、今回の批判がなぜ起きたのかということを考えてみました。
松本さんと安西先生の言葉を比べてみた
もう一度二人の言葉を並べてみましょう。
ダウンタウン松本さん
「死んだら負け」
スラムダンク安西先生
「諦めたらそこで試合終了ですよ」
やはり、どこか似ています。
では思考実験として、安西先生の発言について、試合→人生として読み替えてみます。
スラムダンク安西先生(読み替えVer.)
「死んだらそこで人生終了ですよ」
さらに、人生終了という言葉を「負け」と読み替えてみます。
安西先生の言葉の場合、試合終了は負けを意味しますから、この読み替えは可能でしょう。
スラムダンク安西先生(再度読み替えVer.)
「死んだらそこで負けですよ」
どうですか?
松本さんの言葉に近くないでしょうか。
違うのはそのシチュエーションですね。
・安西先生は、ゲームの途中でゲームの参加者にこの言葉を送った。
・松本さんは、人生を終えた人のニュースを見て、それ以外の人生の途中の人にこの言葉を送った。
共通しているのは「ゲームの最中にある人を励ます言葉」であることです。
ということは、本質的にはほぼ同じ意味の言葉だと考えられます。
しかし松本さんの言葉は批判され、安西先生の言葉は今も語り継がれています。
それはなぜなのでしょうか。
言葉に対する批判が起きる理由
批判的な意見を見た感想
批判的な意見を見ていくと、
- 自殺を選ぶ人の気持ちが想像できてない
- 勝ち負けとか考えられる状態じゃない
- 自殺した人が悪いみたいな言葉は信じられない
- 成功者であり、ムキムキマッチョであり、暴力的な笑いで君臨するダウンタウン・松本さんには弱者の気持ちが分からない
というような意見が多かったように感じました。
どの意見も、もっともだなと思いました。
でも僕は同時に違和感を覚えていました。
ダウンタウン松本さんが訴えようとしたことと、批判のコメントとに、何だかズレがあるように感じたんです。
言葉の原則論を無視して過剰に反応しているんじゃないか、ということも感じました。
言葉というものは、思考のごく一部を記号に投影したものであって、短い言葉であればあるほど不明瞭な表現にしかならないのが原則です。
どうしてこういう事が起きるのだろうか?と考えました。
ズレが生まれる理由。そもそもコミュニケーションが成立していない
批判劇にありがちなのは、批判をする側に、発言者の真意を読み取ろうという姿勢が抜けていることです。
言葉の性質を理解していて、コミュニケーションを取ろうとする意志があれば、
「この発言はどういう意味だろう?」
とまず考えます。
そうすると、言葉には色々な意味が考えられることに気がつきます。
負けとは何の負けなのか?とか、
励まそうとしているのか、
突き放そうとしているのか、
全く興味がないのか…
少なくとも、簡単にその意思を断定することなんてできません。
しかし批判する意見の中には、そもそも発言の意味を正確に読み取ろうという姿勢が感じられないものがありました。
松本さんの言葉だけから連想した自分の考えを、そのまま松本さんの考えだと捉えている。
つまりコミュニケーションが成立していないんですね。
僕が考えるその理由は、国語力の欠如です。
まるで国語オンチとでもいうような行為がまかり通っている気がしました。
国語の文章題のことを思い出してみる
国語で「この箇所で筆者はどう考えているか答えなさい」という問題を解いたことがあると思います。
これでやってしまいがちなことが、「僕が筆者だったらこう考えるからこれが正解」という姿勢で、答えを書く行為です。
これ、大抵は不正解になります。
そしたら「問題が悪い!出題者は筆者の気持ちが分かってない!」と文句を言う。
こんな経験はないでしょうか?
僕はめっちゃありました。恥ずかしながら、大学入試時もこういうやり方で臨んでいました。
これはNGなやり方で、実際、僕の国語はダメダメな結果でした。
このやり方では意図を読み解くことは出来ず、正解にたどり着くことも出来ません。
実はこれと同じ事が起きています。
それはどういうことかというと、相手の意見を批判しているつもりでも、相手の意見なんてお構い無しで、自分の意見をただ言っているだけという事です。
つまり、相手の言葉は批判の材料にしているだけで、
- 自分の意見をいいたいだけ
- 自分の意見と違うことが許せない
- そもそも相手が嫌いで文句をいいたい
- 他人の意見なんて聞くつもりがない
というケースが多いんですね。
そんな批判は意味がありません。
正確に意図を読み取ることから始めるよう、常に気をつけたいと思いました。
ダウンタウン松本さんの言葉に心揺らされたら、自分を見つめ直してみよう
僕の経験を踏まえてもう少し考えてみました。
もし、この松本さんの言葉に反射的に心を揺らされた、しかも負の方向に揺らされた人がいたら、一度自分を見つめ直してみるのがいいんじゃないかと。
よく聞けば当たり前な意味の言葉なのですが、弱ったものに追い打ちをかけるような印象を与える可能性はあります。
それは言葉を受け取る人に理由があります。
この言葉にもしも「自殺する人間はそもそも負けを感じている」とか「自分は敗者だと言われたようだ」というように、負の方向へ心を揺らされたとしたら、バランスが元々崩れていたことの現れです。
健康な精神なら、冷静に受け止めて考える余力があります。
しかしバランスが崩れていると、本人の意志とは関係なく、さらにバランスを崩すようにしか受け止められない状態になります。
だからもし今回の松本さんの言葉にイラッとしたり、悲しい気持ちになったとしたら。
矛先を松本さんに向ける前に、自分のバランスを見つめなおすきっかけにするのがベターな方法です。
そうすれば、より良い自分に出会うことができるはずです。
余談 僕も「死んだら負け」と考えている
余談になりますが、僕も日頃から「死んだら負け」と考えています。
これまでに、挫折を感じ、孤独感と絶望に包まれたとき、自殺という言葉が浮かんでくることが何回もありました。
そんなとき僕は「死ぬのにはまだ早い」と思考を切り替える技術を使ってきました。
また、「死んだら負け」ということも常に意識してきました。
とても単純な話です。
僕達は人間という存在ですが、突き詰めると、一つの生命体です。
虫とか動物、植物と、同じ生命体です。
生命体の目的は生きること。
その目的が達成できない「死」という現象は、生命体としての負けです。
逆にいうと、どれだけ人間社会で負けを感じたとしても、生きている限り生命体としては負けてないんですね。
極端な考えですが、事実です。
僕は随分この考えに救われてきました。
まあそもそも勝ち負けなんて、判断基準をどこに置くかだけの話です。
死んだら負け。
社会的な負けではなく、生命体としての負け。
逆に言うと、生きている限り勝っている。
この考えは、自殺に対するブレーキの役割を果たすと同時に、目の前の閉塞した世界が自分の全てじゃないことを思い出させてくれます。
少なくとも僕はそう考えています。
まとめ
この記事の内容をまとめます。
・ダウンタウンタウン松本さんの発言とスラムダンク安西先生の名言はやっぱり似ている
・コミュニケーションの不足が認識にズレが出ている理由
・発言の意図を掴まずに自分の意見を押し付けていないか気をつけたい
・死んだら生命体としての負けだと僕も思う
僕の解釈が松本さんの真意を捉えているなんてつもりは全くありません。
あくまでこの記事の内容は、僕の考えだけを書いたものです。なぜなら直接確かめてない以上、「こうかもしれない」と考えているだけに過ぎませんから。
ですがあえて想像すると、松本さんが発言に込めたのは
自殺する子供をひとりでも減らすため【死んだら負け】をオレは言い続けるよ。。。
— 松本人志 (@matsu_bouzu) October 16, 2018
のツイートにあるとおり、自殺する子供をひとりでも減らしたい、その切実な思いのはずです。
それぞれがそれぞれの出来ることをやっていきたいです。