【日記】シンプルな幸福論の可能性

今日は変なことを書きます。

「変なこと書いていい?」

「そういうの、大好きだ!」

と言ってくれるハンス王子のような人もいないため、勝手に書くことにさせていただきます。

さて。

幸せってなんだろう?

ということをよく考えています。

どれくらいよく考えているかというと、

信号待ちをしている時。

ふと見上げた空が抜けるように青かった時。

仕事を終えて家に帰って、

トイレでなかなかウンコが出なくて全力でふんばっている時。

幸せってなんだろう?

とつい考えてしまいます。

仏教のお坊さんが書いたとある本には

「幸せとは何かを考える時、それは、今の辛さから現実逃避しようとしているサインなのです」

的なことが書かれてあり、それはそうだなと思うのですが、

私は私なりに真剣に「幸せとはなんだろうか」という幸福論を考えています。

現在の仮説としては、

「集合に属すると認識する時に大きな幸福を感じる」

という可能性が極めて高いと考えています。

シンプルです。

シンプルすぎて、えっ、当たり前じゃん、て感じです。

でも多分そうなんですよね。

対象は何でもいいです。

「共同幻想論」でいう共同幻想でも、対幻想でもOKです。

要は、

「ああ、今、私はわたし以外の存在と目的や行動を共にしている」

と感じる時が幸福なんです。

多分、そう本能的にプログラムされています。

「幸福とは何か」を考えることに意味はありません。

「何を幸福だと感じるように脳はつくられているか」と考えるのが理にかなっていて、ここに進化論的思考を加えると「何を幸福だと感じるように脳がつくられたものが、多く生き残ってきたか」が主題になります。

人間の武器である集団行動。

それをより強力に発揮するためには、集団行動を、つまり集団に属することが幸福だと感じられることが最強です。

「家族がいるから頑張れる」

「子どもがいることでほっとすることができる」

「推しのアイドルがいるから生きていける」

これらは愛でもロマンでもなく、美しい物語でもなく、

こう感じることがあるのは、

ただただ生物として備えた機能を発揮しているに過ぎないんですね。

注意しなければならないのは、これは、

「家族愛は意味がない」というように否定するのではなく、

むしろ全面的に肯定するものです。

その感情は、幸福と感じることは、人間本来の機能に即したものだから当然のことだし、大事にしなければならない。

そう考える合理的な理由をもたらすものです。

だから、

家族や友人を大事にすることは、結局は自分を幸福にするということなんですね。

もちろんケースバイケースで、程度や周囲の人間がどのような人かにもよるので一概には言えませんが。

だとすると、

幸福論はとてもシンプルなものになるかなと。

自分が大事だと思える人、同じ幻想を共有できる人を大事にすることは、自分自身の幸福をかなりな割合で最大化するはずです。

そういえば、2年前にこんな記事を書いていました。

こちらもどうぞ。

タイトル画像【書評】「共同幻想論」を読んで、共同幻想が分かったような分からないような体験をした話。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です