才能がない人に逃げ道を与えない残酷な時代?の才能がない人の生き方について

霧島もとみです。

先日、あまりにも鋭利なツイートにゾクッと背筋が凍るような感覚を覚えました。

これは全くその通りだな…と冷たい汗を書きながらツイートしたところ、多くのいいねをいただきました。田端信太郎さんの尻馬ツイートですが、それでも共感を貰ったことに妙な納得を覚えました。

田端さんのツイートは別に新しい概念ではなく、WebやSNSに触れている人ならもう当たり前のことです。

だからツイートを見た時も「その通りだなあ」と普通に納得したのですが、その時、最近考えていた「何物かになりたい欲」「何物でもない寂しさ」についての思考と繋がった感覚を感じました。

それでメモがわりにツイートをした訳でなんですけれど、もう一歩思考を膨らまして、ブログの記事として書いてみることにします。

才能がない人に逃げ道を与えない残酷な時代とは?

田端さんが言う「残酷な時代」が何かというと、誰にでも才能を活かして有名になるチャンスがある時代のことです。

・自分の才能を表現できる場がある
・評価が可視化される
・誰でも簡単にかつ公平に利用できる

例えば次のようなサービスを使うことで、それが可能になります。

音楽・お笑い・パフォーマンス等→Youtube,Showroom等
小説・文章・漫画→ブログ,note
企画・ビジネス→クラウドファンディング

でもこれって、普通に良いことじゃないですか?

生まれた環境や都会・地方も関係なく、自分の才能だけで有名になれるチャンスが公平に与えられていることって、むしろ自由で最高なことです。

なぜそれが残酷なのでしょうか?

それは「自分は才能がある」という夢に酔いたい人にとって残酷だからです。

田端さんのツイートにあるように、昔なら「俺はビッグなスターになれたのにレコード会社の偉い人に嫌われちゃって~」という話も説得力が少しはありました。

音楽でメジャーになるためには、音楽業界で発信力がある会社や人、つまりレコード会社等の一定の力のある人に認められ、そこからデビューする必要がありました。

漫画や小説なら出版社です。

だから「本当は凄い才能があったけど、レコード会社とウマが合わなかった」「レコード会社の偉い人に嫌われた」から社会に発信できなかったという幻想が成立していました。

歪な形だけれど「自分には本当は才能がある」という夢に酔うことも少しはできた訳です。

でも今は個人が発信の手段を持っている時代。

誰でも簡単にYoutubeに曲をアップすることができて、知人から知人へSNSを通じて広めることができて、その中で「面白いコレ!!」ということになれば爆発的に拡散する時代。

そこには「本当は凄かったんだけど」という幻想の余地は一切ありません。

凄いものは凄いと評価され、そうでないものはスルーされ、視聴回数やいいね!によって厳正な評価が下されます。

だから自分に才能があると思う人、才能がある事を誇りたい人は、無条件でその場で戦わなければなりません。

言い訳による不戦勝は許されない環境が整ってしまってるんですよ。

そしてなぜ残酷なのか。

それは、才能がない人で「才能があると思いたい」人には次の2択しか残されていないからです。

・戦わなければ「結局才能がないんでしょ?」と不戦敗になる。
・戦うと才能がないので負ける。

つまり負けが確定している。逃げ道を与えない残酷な時代とはこの事なんです。

「自分は本当は才能がある」という夢に浸ることはもう許されないんですよ。

なお付け加えると、次々と「才能のある人」が可視化されてサービス上に現れてくるので、自分に「才能がないこと」を忘れさせてくれない時代だったりもします。

何物かになるか、何物でもない自分を受け入れるか

本来、公平な競争が誰でも簡単に出来る場があるのは凄く良い事です。

誰にもチャンスがあって、まさに自由。

しかしここで問題になるのは、「本当は才能があるんだけどね」という夢に酔えなくなる人たちです。

才能があるという夢に酔いたい人は、何者かになりたい人、つまり他人に認められることで社会欲を満たしたいという欲求が強い人です。

いままでは夢に酔うことでそれが満たせていたのに、「じゃYoutubeに曲アップしたら?」の一言で夢に酔えなくなってしまいました。

逃げ場がなく追い詰められ、プライドはずたずたになるでしょう。

そうならないためには、圧倒的努力を積み続けて何物かになるか、何物でもない自分を受け入れるかのどちらかの方法を取るべきです。

別に「才能のある人」にならなくったっていいんです。プロ野球選手にならなくても生きていけるように、才能に頼らない生き方は山ほどあります。

普通に努力すれば、それなりの力が育つように人間の体は出来ていますので、大抵の事は出来るようなるでしょう。

そもそも「何物かになりたい」欲なんて曖昧なものです。別に飛び抜けた才能で社会全体から認められなくても、いくらでも何物かになることは出来ます。

職場での昇任もそうでしょうし、プロジェクトのリーダーだったり、恋人や親、ライバルなど。

それでも「何物かになりたい」欲に執着すると大変です。

「何物かになりたい」という欲=社会欲は結構強烈なので、それに振り回されると壮絶な寂しさを感じるようになり、大きな負担を感じます。

危険な状態ですね・・・。

才能がない人に逃げ道が与えられない残酷な時代ですが、才能へのコンプレックスを捨てることでその袋小路からは簡単に脱出できます。

しかしSNS等で増大された欲求を捨てることはとても難しいでしょう。

「何物かになりたい」欲に振り回された結果、逃げ場がなくなる人が増えていく時代になりそうです。

僕は今のところ見事に才能がないので、簡単に袋小路にはまることができます。幸いにも自分でそのことが自覚できているため、「何物かになりたい」という欲が湧いては捨て、湧いては捨てを繰り返して難を逃れています。

完全には消せないので厄介ですね。社会性動物ゆえの本能でありカルマなんでしょう。

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