霧島もとみです。
太宰治の小説「人間失格」の感想を紹介させていただきます。
昭和23年に発表された「人間失格」は太宰治の代表作であり、最後の完結作です。この作品を書き上げた1か月後に太宰治は入水自殺により亡くなりました。
また、累計部数1200万部を超える超絶ベストセラーとしても知られています。
本を読まない方でも、「太宰治」といえば「人間失格」が思い浮かぶくらい、圧倒的な知名度のある小説ではないでしょうか。
アニメといえば「ガンダム」、
文学といえば「人間失格」。
そんな作品です(違うか…)。
実は前にも読んだことがありました。その時は「なんて駄目な主人公なんだ…」とやたらアンニュイな気持ちになるだけだったのですが、今の自分が読んだら何か違うものが受け取れるかも?と思い、読み直してみることにしました。
「本当の自分を他人に見せることができず、道化としてしか生きることができなかった男」の転落を描いたこの作品に、私は承認欲求のボタンを掛け違えた不幸の姿を感じました。
そんな「人間失格」の読書体験をまとめておきます。
「人間失格」はこんな話
主人公は葉蔵という青年。田舎の政治家の子供で、高等学校にはいるため東京に出てきます。
堀木という画学生に出会い、酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想(原文まま)を教わり、次第に生活を崩していきます。途中で実家からの仕送りが定額制になり金銭事情が苦しくなったことで、その崩れは加速していきます。
女性を惹きつける性質があった葉蔵は、ツネ子、シヅ子、マダム、ヨシ子という4人の女性と関わっていきます。自殺未遂や酒中毒、モルヒネ中毒を経て脳病院(原文まま)に入れられたところで、自らを「人間失格」だと認識します。
その反省を振り返って書いた手記をマダムに送る…。
という凄まじくアンニュイな話です。
救いは一切ありません。驚くような展開もありません。
主人公がただ流されるがままに転落していく姿を淡々と眺めている、という感じです。
「人間失格」を読み解くポイント
4人の女性との関わり
葉蔵は4人の女性と関わりを持ちます。
人間失格を読み解くには、この4人との関わりで葉蔵がどのような行動を取ったかを把握することが有効です。簡単に図でまとめてみました。
1.ツネ子
大カフェ(って何なんでしょう?)の女給です。一度だけ関係を持ち、しばらく後に勤めているカフェで再会します。その時に交友・堀木に「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、…」と言われてショックを受け、また同時に、貧乏者どうしであるという認識に強い恋心を抱きます。
実は、その少し前に左翼運動から逃げ出したことから「死のう」と考えていた葉蔵。
銅銭3枚しか持っていないことをツネ子に「あら、たったそれだけ?」と言われたことで屈辱が加速し、葉蔵は死のうと決意。ツネ子も元々「死」という言葉を口にするほど疲れ切っていたこともあり、二人で鎌倉の海に飛び込みます。
その結果ツネ子のみが死んでしまいます。
ポイントになると思ったのは次のところです。
- 左翼活動から逃げた時に「逃げて、さすがにいい気持ちはせず、死ぬ事にしました」
- 自分は、人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。
- 銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が未だかつて味わった事の無い奇妙な屈辱でした。とても生きておられない屈辱でした。
葉蔵が死のうと思った原因が自分と他者との関係性にあることが分かります。
関係がゴチャゴチャしたり、あるいは低い評価を受けたと感じたり。関係がゴチャゴチャするというのも、他者からの評価が悪くなることへの恐れと言い換えることができるでしょう。
つまり、葉蔵が他者からの評価を何よりも恐れていたことを強調するエピソードとなっています。
2.シヅ子
雑誌社の社員です。28歳の未亡人で、5歳のシゲ子という娘がいます。
葉蔵はシヅ子親子と同棲して、漫画家としての仕事を紹介され、結構楽しく過ごします。最初はとても順調だったのですが、次第に酒に溺れるようになり、生活が乱れていきます。
ある日シヅ子とシゲ子の親子の会話を聞いた葉蔵は、幸福の姿を感じ、その幸福を自分が壊さないようにと、二人の元を離れます。
堕落一本調子に思われた主人公でしたが、ちょっと良いところもあったんですね。「人間失格」に至る小休止といえるエピソードかもしれません。
この間に「世間」というものに対しての認識が葉蔵の中で変わります。世間は個人。以前のようにあれこれ際限のない心遣いをする事がなくなったと書かれています。
3.京橋のスタンド・バアのマダム
良く分からないのですが、ふらっと転がり込んできた葉蔵の面倒をマダムが見てくれます。店の2階に住ませてもらい、店で酒を呑ませてもらいながら、漫画家の仕事をしながら1年ほど生活します。
あまり大きな出来事はありません。
ですが、葉蔵が脳病院を出てから手記を送ったのがこのマダムであることを考えると、エピソード自体は短いながら、葉蔵にとっては大きな存在だったことがうかがえます。
葉蔵にとって、数少ない理解者という位置づけかも。
4.ヨシ子
初めての年下の女性。全く人を疑わない「無垢の信頼心」の持ち主で、葉蔵の内縁の妻となります。人を信じる能力が欠けている葉蔵にとって、無垢の信頼心を持つヨシ子は輝かしい存在でした。
葉蔵は酒もやめて平穏な日々を送っていたのですが、ふと訪れた堀木がまた酒の道に引き戻します。そうこうしているうちにヨシ子が自宅で男に襲われるという事件が起こり、葉蔵は苦悩します。
人を一切疑わない性格のために男に襲われたことで、葉蔵は美質であると考えていた「無垢の信頼心」が罪なのかという疑惑に陥り、価値観を見失いました。
それから酒におぼれる日々がまた始まりました。その中で、ヨシ子がこっそり買っていた睡眠薬を見つけて一人で服毒自殺を図ります。死にはしませんでしたが、その後モルヒネ中毒になり、最終的に脳病院に送られることになりヨシ子とは別れます。
このエピソードのキーワードは「無垢の信頼心」です。
自分にはない、しかしそれゆえにかけがえのない美質と感じた「無垢の信頼心」が人間社会では罪であるという事実を突きつけられ、価値観が崩れ落ちる。
もはや何が何だか分からなくなってしまった。
そんな葉蔵の絶望を感じるエピソードです。
堀木という男
堀木という奴はろくでもない男です。
悪いことばかりを葉蔵に教え、金を無心し、どんどん深みに引きずり込んでいく。
東京に出てきた田舎者の葉蔵への親切ではなく、あくまで自分の遊びのために葉蔵を引っ張り出したという感じにしか見えません。ちょっとサイコパスな感じ。
葉蔵は堀木のことを「交友」と呼び、「互いに軽蔑しながら付き合い、そうして互いに自らをくだらなくして行く」存在だとしています。
やっぱりろくでもない。そんな堀木とグダグダと付き合ってしまう葉蔵もろくでもない男なのでしょうが、そんな男と離れられないのは葉蔵の依存心ゆえなのかもしれません。
そういう悪い男がいる。そしてそんな男と離れられない自分がいる。自分こそ最もくだらない男だ。筆者の被虐的な声が聞こえてくる気がします。
ていうか…。
ダラダラ流されず、付き合う人間は考えましょう。いい大人なんだからさ…って思っちゃいました。
主人公は承認欲求の塊?
葉蔵の特徴を簡単にまとめると次のとおりです。
- 他人の気持ちが分からない
- 自分以外の物事の意味が実感できない
- 他人から悪く言われることが極度に恐ろしい
この結果、自分を表現せずに道化を演じる、なんとなく流されるまま生きるようになります。
なぜ他人から悪く言われることを極度に恐れるようになったのは、何かトラウマがあったのではなく、葉蔵の生来の思考から生じた傾向です。
他人の気持ちが分からない、自分以外の物事の意味が実感できない葉蔵は、他者の世界から隔絶されたような感覚を持っていました。そのうえで他人に悪く言われる、つまり拒絶されてしまったら、完全に他者の世界から切り離されることになってしまいます。
これは承認欲求の現れと考えられます。
そう考えてみると、葉蔵の行動の大部分が承認欲求で説明できます。
葉蔵はゆがんだ承認欲求の塊しかない人間だと言えるでしょう。
1人目の女性・ツネ子との心中のくだりでは、左翼思想の人々から非難されることを恐れたこと、貧乏に大きな屈辱を感じたことが理由でした。どちらも他者からの評価を恐れたもので、負の承認欲求の現れです。
2人目の女性・シヅ子との生活では、ギイ・シャルル・クロオという人の詩句を読んで「自分はのそのそ動いているだけのヒキガエルだ」という思いに囚われ、苦悩しました。自分がヒキガエルだと他者に言われたように感じたことは、承認欲求を大きく損ないました。
4人目の女性・ヨシ子のエピソードでは、「無垢の信頼心」という幻想が打ち砕かれ、その幻想に自分を捧げるという変形の承認欲求が崩れたと考えられます。
「人間失格」だと自分自身を認識した理由は、自分の行いや思考ではなく、脳病院に入れられた事実をもって世間から狂人・廃人という烙印を押されたことでした。他者からの評価でしか自分を評価できなかかった。これも承認欲求の現れです。
この小説は、欠陥を抱えた承認欲求の物語なのかもしれません。
何が「人間失格」なのか?
作中で「人間、失格」という言葉が出てくるのは葉蔵が脳病院に収容されたときです。先ほど書いたように、世間から狂人・廃人という烙印を押されたことで自らを「人間、失格」と断じました。
この小説を読んでいると、とにかくだらしなく、他人に非難されることにおびえ、酒やモルヒネに溺れ、女性たちを次々と巻き込んでいくという主人公の姿そのものが「人間失格」と考えてしまいそうになりますが、そうではないんですね。
あくまで世間からの評価によって「人間失格」になるのだと。そして自分自身がそうなったのだということを、書きたかったのだと思います。
「人間失格」となった葉蔵はどんな状態だったのかと考えると、世間から非難されることを極度に恐れた葉蔵からすれば、途方もない罰だったはずです。空虚、無気力、喪失感。胸に大きな孔が傲然と空いたような状態だったでしょう。
「人間失格」は、人間、つまり世間からの承認欲求を満たしたかった葉蔵にとっては完全な絶望です。そしてそのことは、葉蔵がかつて持っていた「人間であろう」という気持ちを完全に消してしまいました。
あるいは、このことをもって「人間失格」と烙印を押したかったのかもしれません。でもこれはちょっと考え過ぎかもしれません。ややこし過ぎですね。
手記の最後は「ただ、一さいは過ぎて行きます。」が二度繰り返されました。かつて葉蔵が「自分はのそのそ動いているだけのヒキガエルだ」ということに苦悩したことを考えると、その心の作用さえも失った状態になった、と考えてしまいます。
自分が思い描いていた人間の世界から切り離されたこと。
それが「人間失格」であり、絶望なのだというように今のところは解釈します。
ラストに込められた「願い」とは
この小説のラストは「あとがき」として、「私」が葉蔵の手記を京橋のスタンド・バアのマダムから受け取ったくだりと、後日「私」とマダムとが交わした会話で締めくくられます。
なぜこういう構成にしたのだろう?と気になりました。
太宰治が自分の姿を葉蔵に託して書き表したかっただけなら、手記だけでよかったのではないかと思ったんですね。こういう構成にして、「はしがき」「あとがき」を付けたのには、何らかの理由があるはずです。
「あとがき」はこのように締めくくられています。
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
悪いのは父親、というメッセージではないと思いました。単純すぎますし、手記の中では父との関わりがあまり書かれておらず、ちょっと無理筋です。
ラストのすぐ前で「私」が「あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう」と言っています。お礼なのか?いや、これは違うなと思いました。手記の内容からそうとは思えないからです。こんな懺悔のような手記がお礼になるはずは無いですよね。
この台詞はラストの前振り、軽いボケでしょう。一旦違うことを言う事でラストを際立たせる。
とすると本当の狙いは何だろうか。
最終的に落ち着いたのは「自分の承認をわずかでも残したかった」という精神の願いが込められている、という考えです。
なぜ葉蔵にマダムに手記を書かせたのでしょうか。マダムは転がり込んできた葉蔵を受け入れて、住まわせてくれた恩人です。それにマダムには大きな迷惑はかけていません。マダムなら、人間失格になった今でも自分を承認してくれるのではないか、そんな願望を抱くのは自然でしょう。
自分は人間失格だけれど、それでも、自分を「神様みたいないい子」だと承認してくれる。そんな人がいて欲しい。そうであって欲しい。
最後まで承認欲求を捨てきれない人間のありようを、そこにすがろうとしてしまう姿を書きたかったのではないか。
そして自分を承認して欲しい。
最後まで捨てられなかった太宰治の願いが込められている。そう受け取りました。
おわりに
以上が「人間失格」の読書体験をまとめたものです。
累計1200万部を超えるベストセラーということは、共感する部分が多くの人間に普遍的に存在する、ということでもあると思います。
私は他者とうまく関われない承認欲求の悲劇と受け取りましたが、それ以外のエッセンスも多分にあるのだろうと思います。
引き込まれる文体に、あっと言う間に読んでしまいました。
そしてどんな形であれ、感情を大きく揺さぶられる本です。大いにアンニュイになるか、何か気付きを得るか、読む人次第で形を変えることでしょう。
AmazonのKindleでは青空文庫版を無料で読めます。文学史に残る名作、まだ読んだことがないという方は一度読んでみてはいかがでしょうか。